2009年12月20日日曜日

北アフリカ急ぎ旅 アルジェリア 落とした事件Ⅱ アルジェのおちびさん 君はどこにいるの?


(記憶遥か)
 アルジェの中央郵便局で私を助けてくれたのはアルジェ大学の女子学生だった。彼女たちの会話はすべてフランス語で、三人のうち背の高いスレンダー嬢とおちびさんの二人は英語を話した。日本人とは初めて話したようで、彼女たちの関心は同世代の男性に興味が移ったようだった。N社の訪問が夕方になったため、彼女たちに付き合うことになった。

 行き先はアルジェ大学だった。坂道を一緒に歩いていくと女友達が合流した。スレンダー嬢が盛んに話してくる。女子学生の好奇心そのもののたわいもない話だが、私には久しぶりのリラックスした時間だった。その有難さをかみ締めた。

 歩いていくテンポが間延びしたようなタイミングで坂道の上に来た。そのうち彼女たちの中では一番年下の女の子が、急に泣き出した。仲間内では誰も泣き止めることが出来ないようだったので、私は立ち止まり彼女の前に来ておせっかいにも胸に腕を組んで「大丈夫かい?」と心配してあげた。

 どうやら、その女の子は私が従兄をアルジェまで訪ねにきて、お金を落としてしまい、遠い日本に帰るに帰られないような状態だ、ということを女子学生達が話し合っているうちに大げさな話になり、感受性の強いその一番下の女の子が悲観して泣いてしまったようだった。ほかの女の子はこの子ならしょうがない、というふうに傍観していて、私はまた、「大丈夫かい?」とさとしてあげた。

 坂道をさらに歩いていくと今度はスレンダ―嬢の男友達が合流して、彼女との会話から「何がほしいの?」と、聞いてきた。私はパンがほしいといった。彼は好意で食べかけだった小さいフランスパンを差し出した。私はいいんだ!とおなかがすいたのではなく、持っているお金を大事にしなくてはならない状態なんだ、と伝えた。そのうち、スレンダー嬢と男子学生はグループと別れていった。

 大学に着き構内のベンチに座りキャンパスライフを眺めていた。気持ちのいいポカポカした陽気に付き合ってくれたは、郵便局からのおちびさんともう一人の女子学生の二人だけになった。そのうちづんぐりとした男子学生がやってきておちびさんたちと話し始めた。私は、昨夜の風呂屋泊まりが響いて赤黒く腫れた額をかきながら、メンソレタームを塗り始めた。「南京虫にやられたんだ」と、私はおちびさんに自分の惨めな気持ちを正直に伝えた。おちびさんは「大丈夫よ、たいしたことないわ」と慰めてくれた。そのうち男子学生が「カラテ!カラテ!」と話しかけてきたので違う、違うと答えるのも億劫に、彼にブルース・リーの話や沖縄空手の話を嫌々話した。

 そのうち、おちびさんがアルジェリアについて知っていることを話してくれ、と聞いてきた。私は映画で見た「アルジェの戦い」と、つぎにアルジェ生まれのカミュの「異邦人」を読んだと伝えた。彼女の反応がないので私はアルジェリア民族解放戦線のスポークスマンだったフランツ・ファノンの本を読んだ、といった。おちびさんは、「それは翻訳本なの」と尋ねてきた。私はフランツ・ファノン著作集(みすず書房)を読んだといった。しばらくしておちびさんが思い出したように「その人のことは聞いたことがある」と反応した。

 その時、フランツ・ファノンを思い出した私は、おちびさんが、現地語のはずのアラビア語を一言も話さず、あいかわらずのフランス語と私に話しかけてくる英語で会話することに違和感を感じていた。それも郵便局で会ってからずーっとそうだったからだった。

 フランス領マルチニック島生まれの黒人、フランツ・ファノンが処女作「黒い皮膚・白い仮面」で語る、自分とは何者なのかというアイデンティティを巡る葛藤が独立して13年あまりのアルジェリアの若者には見られない。そのことが私にはものたりなかった。私と 同世代の彼らが、占領国だったフランスの言葉を友達同士で流暢に話すのが当たり前で、まるでファッションのように使う学生が特権階級のように見えた。彼らの普段の姿がまぶしく見え、また違和感を私は感じた。

 それからアルファベットで住所を書いてくれとおちびさんが言うので紙切れに名前と日本の住所を書いていると、おちびさんが「きれいに英語を書くのね」といった。私は「僕が書く日本語はみんなが汚くて読めないっていうんだよ」と言うとおちびさんは笑った。

 しばらくして、私は二人がバスで出かけるというので街のバス停まで見送った。おちびさんは住所を教えてくれた。私はお礼のあいさつをして近くにあるというN社まで歩いて行った。

****
背が小さかったから、おちびさん

Miss Zineb Bella
26、Rue des pins Hydra Alge Algeria


一年後、私が日本に戻ったらおちびさんから何通かの手紙と缶入りの飴が机の上に置いてあった。何回か文通してそれからおちびさんがアメリカに留学し、日本人の若夫婦に英語を教えていると書いてあった。おちびさんのアルファベットは彼女が言うようにあいかわら

ず右から左に書くアラビック流の癖があってあまり変わらないんだなぁ、と思った。もう少し文通したいといっているうちにおちびさんはイラク人と結婚するつもりだと伝えてきた。私はあの、べっとり手のひらに汗をかいたイラク人と結婚するんだと感心してしまった。
そして、イラク戦争。おちびさんはいったいどこで暮らしているのだろう?


次回から「1975年の青春」は中休み。

2009年12月12日土曜日

北アフリカ急ぎ旅 アルジェリア 夜行列車・寝ぼけてサイフをトイレに落とした事件




10月23日 チュニジア
42ドル換金  1050ドル

10月25日
10ドル換金  1040ドル

10月27日 アルジェリア
 (車中) 840ドル(チェック)紛失
      計200ドル
アルジェ
20ドル換金   180ドル

10月29日
20ドル換金   160ドル

10月30日 チュニジア
20ドル換金   140ドル

10月31日
60ドル換金   80ドル

11月2日 イタリア
11月3日 (船中)
20ドル換金   60ドルと3万円
11月5日  ローマ
11月6日
ニューヨークシティーバンクローマ支店で
500ドル(チェック)を回収 計560ドル
(記憶遥か)
 「夜中にトイレに行きたくなって、後ろの車両のトイレに入りました。腹の具合がよくなかったもんで、しゃがんで一息ついて立ち上がろうとして、ねぼけて二つ折りの腹巻の中を探ったところポロンッ、とチェックの冊がはみ出て落ちてしまったんです(笑い)トイレの穴の下は鉄道の線路がビュン、ビュン飛んでいるのが見えてふたがない。うんこもチェックもストレートに落下し一瞬です、ピューン、です。(大笑い)

それで、なにが起こったんだろう、と一瞬考えてヘラヘラッ、となって(笑い)「これは現実なんだ」と気持ちが切り替わってすぐに車掌さんを呼びに行ったんです(笑い)車掌さんは僕がトイレにお金が落下してなくなってしまった、と簡単にパントマイムで伝えるとわかってくれたようで、仲間の車掌さんを呼びに行ったり。でも、どうしようもないのがわかっていて、首をがっくりおとしてくれて。(笑い) 」


署長は時々、参集の警察官と一緒に笑ったり、くすくすと肩をゆすったりしていたが、よい反応があったようだ。20坪ほどのレンガ造りの建物の中は何もないだだっ広い大広間で、嬉々として私の「わけ」を知りたくて警察官が続々と部屋に集まって私のパフォーマンスを見ていた。

その警察官達が、納得したように引いていく。そのタイミングにあわせ所長はタイプを持ってくるように指示し、仕事部屋から大広間に移した木のデスクに向かい思案しだした。私は手元にあったパーカーの大事にしていたボールペンを署長に渡し、シティーバンクに送るトラベラーズチェックの紛失証明書の作成を改めてお願いした。

 一時間ほどでフランス語の証明書が出来上がった。アルジェ駅に近い警察署だったためこの種の話には慣れているようで、待っている間の私と平警察官の会話は「アルジェリアについて」のお定まりのお国自慢だった。私が伝えたのは、「アルジェの戦い」の映画の話で、夜行列車の事故後応援に駆けつけた車掌さんと同じように警察官もタタタッ、タタタッ、と機関銃を構えるスタイルに夢中になっていた。

朝っぱらからの余興に続いて今日は急がなくてはならない。つぎは日本大使館だ。大使館に聞くことはアルジェのN社の住所と電話番号そしてフランス語の速達というスペルを紙に書いてもらうことだった。速達便でニューヨークのシティーバンク本社事故係に送る手紙が厄介な内容になる。大使館に着いて日本人の男性スタッフに事の顛末を伝え自分を落ち着かせた。そして、スペルの件を頼んだ。そのスタッフは皮肉交じりに英文の依頼状は書けるのかい、といって席をはずした。

しばらくしてアルジェリア人スタッフに代わった。彼はあえて時間をとってくれ別室でN社のメモをくれた。椅子を対面に置いてスーツ、ネクタイ姿のピシッとしたエリート係官の質問に答えた。事の顛末より彼は今日の泊まり場所は決まったのか、と親身になってくれそうな姿勢を見せた。私はガイドブック通りの安宿を提案した。「こうなったらバスに泊まるしかないでしょう」とたわしで体をこするまねをした。彼は笑い出した。それが風呂屋に泊まることを意味することから、納得したようでそれからは彼と打解けて話し合い大使館を後にした。

次の日、アルジェの中央郵便局に行った。イタリアのローマでチェックを受け取りたいと手紙をその場で英文でしたため,紛失証明書を同封して速達でニューヨークのシティーバンクに送った。それからは、N社の連絡だ。私が局内の電話の前で落ち着かない様子なのを見ていた現地の若い女性達が見かねて助けてくれた。その三人が変わりばんこでN社アルジェ事務所に電話してくれた。ちょうど昼休み中で日本人スタッフは不在だった。夕方まで待つことになった。

N社は大きな繁華街にあった。エライさん二人にまず自分がどこの誰であるかを伝え、信じてもらうことから始まった。日本への確認は24時間後、テレックスによる連絡待ちになる。そしてタカシちゃんは帰国中だということを知った。

夕暮れの時間になっていた。私はエライさんや若い日本人スタッフに促され車に乗った。どうやら食事に誘われたようだった。突然の闖入者であることからも車が止まってレストランに着いたことを悟って降車したとたん辞退したいと告げ、礼をいいその場で失礼することにした。厚意に甘えることがとっさの判断だったが、受けることが出来なかった。

翌朝、事務所を再訪し、総務セクションのエライさんに「今日、ローマに行きます」と告げ私は再びアルジェ駅からチュニジア行きの列車に飛び乗った。

2009年11月28日土曜日

北アフリカ急ぎ旅 リビア チュニジア国境、申告所持金額 虚偽疑いの顛末




10月21日リビア

10月23日 トリポリ
20ドル換金 1092ドル

(記憶遥か)
 パスポートと出国の書類を審査していた係官が申告書類を凝視し、私に声をかけた。フランス語なのでこちらは軽く相槌を打つぐらいの反応しか出来ない。職務上凛々しいが、小柄な係官は、側の係官に一言、二言いい、カウンターから部屋に入るように私を手招きし、次に登山ザックを調べ始めた。昼過ぎにしては出国する人がまばらで、大部屋のような、外とついたてひとつないだだっ広い空間でその係官にこ一時間調べを受けることになった。

 係官は、申告書類に私がトリポリで両替した時伝えた20ドルが問題だ、と書類を指差し問いただした。そして、有り金すべてを出せと命令した。私は、サイフから始まって、小銭入れ、チェック一冊、別サイフのドルとベルトをはずして裏側にジップでしまった隠れサイフの日本円すべてを提出した。係官はその私にとって命の綱になる大金をポイッと机の上に放り投げた。

 係官が席をはずした。誰もいないのを幸いに「お金の大切さを知らんのか!」という気持ちから私は放り投げた大金を懐にすべて回収した。戻ってきた係官は机の上のドル紙幣、トラベラーズチェック、日本円、小銭が消えているのに気づき、あわてて私を問い詰め、顔色を変え完全に取り調べ官に変身した。

 係官はすぐに、全額返せ!と叫び、身体検査をする体勢に入り私を立たせ、上半身、下半身をタッチし、体の前後にわたり調べ始めた。つぎに登山ザックのなかを再度入念に調べ始めた係官は、おもむろに本を取り上げページをパラパラとめくりだした。「サダトだな、こいつは!」係官は邦彦兄にもらった詩集を指差した。サダトはエジプトのサダト大統領のことで、隣国のエジプトとリビアは仲が悪かった。サダト大統領の載っている本を携帯する旅行者はろくでもないヤツ、といいたいわけだ。「違う。その本は詩集で、その人は島崎藤村という詩人だ」とうんざりした感情をこめて私は伝えた。係官は「じゃ、この金は何だ」といいたげに大金をつきつけた。

 私を見つめる係官は、自分の意思が通じていないと思ったのだろう、吹き抜けの建物の外を通り過ぎる普段着を着た子供ずれの人に声をかけ、再び座をはずした。

 その二日前の夕刻、私はエジプトーリビア国境を越えた。既に銀行が閉まっていて両替が出来ない。メイン道路はそれこそ地中海に沿って一本道で、通る車も多くわかりやすい。イスタンブールで聞いていた「リビアはタクシーがヒッチハイクで乗れる」話に期待しながら人家が消えた荒野の道を私は歩き始めた。
そのとおりのヒッチハイカーになった。直ぐに車が100㍍先に止まった。イタリア車のタクシーは相乗りで既に男が四人乗っていた。後ろ席に乗せてくれたドライバーは、無言だがにこやかに話しかけ、私がかってにトリポリといったことに手を上げて応え車を走らせた。相乗り客に合わせシートベルトを締めた。車の安定のよさ、早いこと、外は何も見えない荒野の暗闇をひたすら西に向け高級タクシーはスピードをあげた。

 途中、一度軽食をとるためタクシーは食堂で止まった。相乗りの乗客にはパレスチナ人の若者がいた。赤と白のチェックのパレスチナの伝統的スカーフ、カフィイェーをかぶったその若者が食後、目の前に現れたので一瞬、戸惑った。食事の料金は闇で交換した50ディナールで間に合ってほっとした。その心を察したように乗客は、ただ私をみつめ、金を払うのを確かめるようにまどろんだ時間の余興を楽しんでいた。

 眠れたという余裕を感じないまま早朝、首都・トリポリに車は着いた。タクシー乗り場なのだろう、分厚い胸のそのドライバーに畏敬をこめたように人が集まった。私はヒッチハイクの恩恵をありがたく頂戴した。直ぐに銀行に向かった。銀行の窓口で申告書類の提出窓口を指示され、私はドルの交換を申告した。
そのとき思考が飛んでいた。まず所持金を申告し、ドルをリビア通貨に交換する順序を忘れていた。

 


 そのことを思い出したとき、係官が声をかけた人が、出国ゲートの順番待ちの時見かけた人だったことに気がついた。係官の上司だったのだ。たまたま今日は非番で、娘さんを連れて事務所に立ち寄った風だった。

 ラフな半そでシャツのその上司は、私にアラビア語で問いただした。日本人が出国の際、持ち出していいお金は1500ドルだが、私の場合は、それから日本で支払った横浜からトルコ・カルスまでのインツーリストに支払った額を差し引いた金額だった。しかし、それではすくなくとも一年間の旅費は賄えない。いつ帰るか予定を告げられない私を心配して父がドル紙幣を餞別にくれた。

 私は、娘さんと一緒に事務所にやってきたその上司の寛大さに賭けた。「父が、私の長旅を心配して多くのお金をくれたのだ」と繰り返し英語で伝えた。熱意を込めての演技に上司は応えてくれ、私はようやく放免になった。

 若い係官も納得したようでようやくリビアを出国した。ところが、混雑しているチュニジアの入国管理事務所で長く順番待ちし、ようやく審査のときを迎えたとき、あのリビアの係官がチュニジアの係官と楽しげに話しこんでいるのに私は気がついた。その係官もにこやかに私に声をかけてきた。私は「ここはチュニジアであってリビアではない」と、真顔で繰り返した。チュニジアとリビアは統合を検討した程、蜜月の関係だったのを後で知った。
(2009.11)

2009年11月10日火曜日

青春18キップ的すすめ 4 森の仕事 森の幸 ~諏訪郡富士見町沢入山 1


うき がく

森の手入れは、精霊にあいさつすることから始まる。お酒にお米にみかん、榊・・それをひと目みただけで手を合わせ、怪我をしないようにと拝みたくなる。木の精霊が我々を認め、見てくれていると感じることで山仕事が始まる。そのおかげで山の手入れは三日の予定が一日半に短縮した。体にはきついが、余韻を残すいい仕事だった。ここは長野県諏訪郡の入笠山を望む青木の森。


実は、自分は一日遅れての参加だった。残念ながら冒頭の神事はお供え物を見る場面しか知らない。しかも斜面には木の階段が出来上がっていた。なんだか準備体操がないぶっつけ本番の山仕事が待ち受けていたようだ。有難いことにこの段取りは相方の山仕事に慣れた義兄の昇さんが仕切ってくれていた。おまけに作業する場の境界区分は既に終え、さっそく斜面の下草刈りに取り掛かかることになった。

作業は南から北に下がる斜面の林間に光を入れるための除伐だ。傾斜40-45度の林間作業は慣れるまでが大変。地下足袋での作業が救いで、皮手袋の有難さも知った。木の数がやたら多い。ひたすら光を求めてか細く伸びる落葉広葉樹林の十本に一本は枯れていた。

下草刈りでは斜面を這うように伸びる山つつじは残す。落ち葉が厚く堆積していて、刈る量はたかがしれている。間伐は自分の力では5-10センチ太の枯れ木がやっと。それに比べ昇さんと生きを合わせ指示方面に倒木するきこり仕事は本格的だった。その緊張感と疲労感。小気味いい阿吽の呼吸。木を担いで走り回り倒木を確認する危険度は経験こそ力だと感じる。

2009年11月1日日曜日

北アフリカ急ぎ旅 アレクサンドリア、イスラムの教え




10月19日 アレクサンドリア
10月20日
20ドル換金 1112ドル

時間は 時間は
合言葉が始まった
それから それから
金の催促が始まった

いつか変わるはず
麗人の瞳さん
話が続かないもどかしさ
アラブの太陽が沈むころ
国境の緑のオアシスでお会いしましょう

鶏糞のにおいも慣れた今日
バスの喧騒にあきれた思いは
地中海の青さを眺めるままに消えてしまう

いやいや 悲しい 
麗人の瞳さん
ここかしこ アラブの炎が燃えています

4:00 カイロ駅にて

10月20日

貧乏人の声は聞いたことがない
金持ちの声はわからない

ここはアレクサンドリア
クレオパトラのはなやかさと
アントニオの剛健が
何も残らぬ地中海に
私は貧乏人の声を尋ねた

あなたはどこにいます
アルジェリアですか
東京ですか
空高く舞うイカルスの羽は教えてくれますか
太陽の力が貪欲な話に変わってしまうのは本当ですか

国境に近づいています
貧乏人の姿が現れます
旅人は声を聞きました

2009年10月25日日曜日

北アフリカ急ぎ旅 ルクソール, プロペラ機・尻びらきの搭乗事情







10月9日

宿にはいつも淀んだ空気が満ちている
いつからか、旅人は気づいた

紅茶の甘さにひたる時間も
主人があいさつする朝の声も
ここかしこ疲れを重ねる

いつからか宿の住人は変わり
テラスに寄りかかる人の影は
たそがれ時間がまた来たことを気づかせる

宿はくつろぎの場でもあった
でも変わらぬ淀みが紅茶のレモンの香りを消してしまう

気づくことが遅すぎたのか
日一日と空気と住人は淀みの中に浸ってしまう
始まりの続きはどこまでか 明日 明後日

10月10日
エジプト着 カイロ
50ドル換金 1212ドル

10月13日 ルクソール
50ドル換金 1162ドル

10月14日
30ドル換金 1132ドル

10月15日 カイロ

(記憶遥か)
ルクソールはスーダンから上がってきた旅人のオアシスだ。しかし私には、アフリカ深部を避けた北アフリカ急ぎ旅の寄り道に過ぎない。

南から上がってきた者にとってルクソールは地中海のにおいを嗅ぐことができるアフリカ大陸の脱出口になる。宿に日本の同世代の若者が伏せていた。マラリアに罹っているらしい。早く医者に診てもらわなくてはいけない。私はその偶然の機会に遭遇し友をカイロに搬送することにした。

なぜか、時間の観念が薄れていた。友の体調に任せ、傍観する悪しき旅の思考が支配したからだろう。前日に買ったカイロ行きのチケットを無駄にはできない。リキシャ(人力車)に乗り込み空港へ向かう。時間は間に合っているはずだった。少なくともルーズなエジプト時間に遅れは採っていないはずだった。
 飛行場の搭乗カウンターからは滑走路が目の前に広がっていた。小さな飛行場は機敏な動きができる。ルクソールはエジプトタイムとは違っていた。すでに搭乗予定のプロペラ機は機首を助走路上において滑走路に向かっていた。あわてた係官がレシーバーを取り、もう一人がガラス扉を開いて滑走路に走るよう誘導してくれた。

それからのランニングの長いこと。荷物が二つに、フラフラの友の肩を担ぎとにかく二人で叫ぶより、走りに走った。必死な形相、恥も外聞もないとはこのことだ。

離陸体勢に入っていたプロペラ機が待機態勢に変わり尾部が搾り出すようにゆっくり開き、パーサーが機の中から手招きし僕らを迎えてくれた。


カイロに就いて国立病院に直行。エジプトでは既に慣例になっているように医者関係者が友の収容に同意し私の義務は終わった。受け入れ体制がガイドブック通りなのには驚いた。

カイロのユースホテルに泊まり、ギザを代表に高名なカイロの見学コースを巡っての数日後。ルクソールの友がドミトリーの二段ベッドに横になっているのを発見した。「金をとられたくない」。ただそれだけが、強行退院の理由だった。病院側のノーマネーは友には通用しない。アフリカの旅は一瞬の油断もゆるさないという友の覚悟だった。
*たびたび登場するガイドブックは文庫本「アジアを歩く」(絶版)

2009年10月11日日曜日

不可解な国ヨルダン




10月2日 陸路ヨルダン、アンマン着

10月3日
70ドル換金 1272ドル

10月4日
ヨルダンに来てから調子がよくない。下痢と疲労で歩いているとフラフラする。気が緩んでいるようだ。10日にエジプトへ向かう。フライトに65ドルほどの金がかかった。それも仕方がない。年齢で料金設定が違うという。ステューデント・カードはまがい物扱いかもしれない。あてにならない。

ヨルダンはシリアに比べ落ち着いている。長男と三男坊ぐらい。王政と社会主義政党の違いというか、金持ち国と貧乏国の違い・・いや、いやどこも発展途上の国だ。

10月6日 ジェラシエ
10月7日 ペトラ  それぞれ日帰りの旅。

10月8日 10ドル換金 1262ドル

10月10日50ドル換金 1212ドル
エジプトへ

(記憶遥か)
 あのロレンスで惹きつけたアカバにむかうヨルダンの南北縦断路。その国道16号線のT字路から西にペトラ遺跡まで20キロあまりかかる。行きは旅行者を観察してツーリング先を思案するインテリ・タクシードライバーの力で観光慣れしていないベドウィンテントに招かれチャイ(紅茶)をご馳走になり、その寄り道で時間がなくなりエル・カズネ(宝物殿)の観光見物は正面前でお預けになった。帰りは急速に迫る夕闇に追われながら、ようやくT字路に戻り私には高額の交通費を払う始末の悪い一日を過ごしてしまった。

 さて、このT字路は基点ではあるが岩ばかりで何もない。帰りのバスがない。仕方がないのでヒッチハイクすることにした。闇が迫る中の始めてのヒッチハイク。アンマンに向かうメインの道路だけに走行車数は結構多い。ありがたいことにしばらくすると乗用車が50メートル先に止まった。なにせ、由に100キロを超えるスピードで車が走っていく。

 20代の男性ドライバーの親切で車の後席に乗る幸運に恵まれた。ところが、前がめちゃくちゃ。フロントガラスがひび割れ拳骨大の穴が開いている。彼は強引に左足でフロントのひび割れ部を蹴飛ばした。ガラスが粉々になりピューピュー風を受けながら、一路アンマンに向かった。これ、すべて運転しながらの超人ぶりにあきれそして確信した。路傍の砂塵に負けない当たり前の振る舞いだということを。

 アンマンの街中でお礼をいいホテルに戻った。するとホテルのフロントマネジャーが「明朝、出てってくれ」という。飛行機のキャンセルまがいの料金吊り上げといい、ホテルマンの拒否と続いた。日本の赤軍派の活動がシビアにヨルダンの公安を動かしたのだろうか。不可解な国だ、ヨルダンは。

2009年10月3日土曜日

シリア ダマスカス, フセインはどこのフセイン?


10月1日 シリア ダマスカス
50ドル換金 1382ドル

 ダマスカスは喧騒。お隣のイスラエルとはドンドン、パチパチ。昨夜の高射砲の音はすごかった。今まで聴いたことのない音響。響いている。すさまじい。でも、夜の静寂下の大音響に比べ朝からにぎやかな首都の活気が対照的。商売が始まり、終わってからの暗闇は戦争の構え。異常が正常と感じるその典型が戦争下の国の現実だ。


 ホテルは一階の天井が高く、建物そのものがコンクリートのがっしりしたたたずまい。   ロビーのカウンターで「おはようございます」と英語で今日の宿泊の予約をする。カウンター周りには定宿の泊り客が気安く集っていた。僕を日本人と見て皆、愛想がいい。一人がアラビア語でおはようございます、といった。するとその周りから僕に向かってにこやかに「おはようございます」。僕もそのぐらいしゃべらなくては、と大きな声で真似る。「サバーフヘール」。


一人が違うというように正確なアラブの発音で繰り返す。サバは跳ねるようにサバ。フは小さく、火を吹き消すように短くフ。ヘールはハイヒールではなく、巻き舌でへールルル・・という風に。三、四回繰り返し「サバーフヘール」は合格。
翌朝、同じ常連客がまた、受付カウンターでたむろしていた。僕はアラビア語で「サバーフヘール」。すると連中はビックリしたように一斉に「サバーフヘール」と応えベラベラ、ベラベラしゃべりだした。


 なんとなく仲良くなったような・・そのうちまじめそうなビジネスマン風のシリア人らしき20代のがっちりした180センチ男が、今日の予定を僕に尋ね、観光見物に付き合ってくれると英語で言った。ありがたいのでお礼をいうと、近くの名跡につれてってくれることになった。


 彼に連れられ行ったのはウマイヤド・モスクだった。ガイドブック通りのコースに乗った名跡。彼はイラク人だった。寺院に入ると盛んに話しかけてきた。よくわからない解説より、時々気になる言葉に耳を慣らした。アラブでは結婚するのに金がかかり、一夫多妻で・・フセインの話に入ると、暗殺の話や歴史的なうんちくをベラベラとしゃべるのでまったくわからない。王であるとか何とか。
 そのうち僕の知っているフセインは(イラクのサダム・フセインであってこのモスクにゆかりのあるフセインの話なのかどうか・・アアそうだ!僕の知っているフセインはトルコのカルタルで世話になったフセイン・オズトップなんだよ!)といいたくなった。そのフセインはカルタルでもあの人、この人がフセインであって、わけがわからなかったので、そのイラク人のいう輪をかけたフセインがさらにわからなくなった。


 彼は僕の体に近すぎの距離でしゃべっていた。そのうち下げていた僕の手の平を握ってきた。なんとなく、いやな感じだなァと思っていたのでその手を抜いて、僕は背筋を伸ばし両腕を胸に組み上を見ながらウン、ウンとゆっくり彼の言っていたことがわかっていたようにうなずきながら・・・ゆっくりモスクの観光コースに紛れ込んだ。


 この彼の怪しい行為に僕が態度を変えたことで、彼はそれ以後あまりしゃべらなくなり、ホテルに戻ってから会うことはなかった。
それ以来、イラク人はというと(記憶遥か)・・・べっとり汗をかいた分厚い手の平を思い出す。(200910)

 午後からエジプト大使館にビザをもらいに行った。青年海外協力隊の男性隊員にあった。シリアで一年半、器械体操を教えているという。すっかり地元になじんだその顔つき。毎日いかに食い、住み、進むかを仕事にする旅行者にはまぶしい、うらやましいと思った。
戒めは、腹を冷やさないこと、生水を飲まないこと。

2009年9月6日日曜日

シリア パルミラ、ベドウィンテント指鉄砲殺傷未遂事件




                      
     
 
       
  9月29日
  (記憶遥か)       
 笑い声に小声、その合間にギターに合わせヨーロッパ歌謡を奏でている隣り部屋。陽気なギターの音色が聞こえてはいるが、旋律がくるくる回っていても頭の中の芯はクールだ。私は枕に顔を乗せている現実に引き戻され、寝られない。もう、12時過ぎ、私は砂漠のテントから引き上げてから安宿の一室でうつぶせの体をなしたままだった。

 夕方、街に出て行商のパン屋に群がる住人たちと争うように焼きたてパンを買った。軽めの夕食がこの時間になると響いてくる。昼間の暑さとトラブルで体も神経もカッカして余計眠られない。ひと言いいたくなる。「なんでこんな遠くまで来たんだろう・・帰りたくなってきた」。ついにくるものが来たようだ。

 なぜって、ベドウインテントの天井の小さな穴を指差し、その指先をこちらに向け「ダン、ダンッ!」とくれば間違いなく脅しでしょう。右手の親指と人指し指をこすり合わせ「金をよこせ!」とくる。指弾するように指鉄砲を向けさあ、どうする、と吼えるテントの親父の恐いこと!そうくるとこちらは間合いをあけて、直立しながら「ありません!」と、脅しへの返答を繰り返すばかりだった。

 これが二度、三度と続くと語気を強めたテントの親父も堪忍袋が切れた様子で、むかってこようとする。が、帰ったばかりの仲間の若いガイドが静止する。「客をこんなに呼んできたんだから、彼らの前でやめてくれ!」という。確かに、この数日の不振が吹っ飛ぶようなこぎれいな西洋人の旅人が5、6人飛び込んで来た感じだ。悪くいえばポンビキに引っかかった客人がベドウィンテントの無料宿泊に惹かれ、はしゃいでいる。

 自然と貧乏旅行者には早く消えろと合図を送ってくれている。が、親父はぶつぶつと体を震わせ、わめきながら再度の威嚇動作をかける。私はといえばザックをしょって深々と頭を下げお礼をいい、道なき砂漠の先にかすかに光るタドモル市街の明かりを目指し歩くことにする。

 親父の言い分はこうだ。「2日もいたんだから宿賃を払え!」。でも、最初の約束は「ノーマネー!」。私は「払う気がないんです!」と、言うしかない。歩きながら、このタイミングを逃したら大変なことになった、と反省と若干の安堵で歩幅は早くも早足になった。

 実際、パルミラ行きはワクワクしたものだった。ガイドブックによれば、パルミラに行かずして、と賛辞を贈る名跡だ。褐色のシリア砂漠をローカルバスで向かう。遺跡全体が見えるころ周り360度は地平線に囲まれている。北東に延びる山脈にぽつんとアラブ城砦。風雪に耐えた石の遺跡群がフィールドに累々と横たえあるいは直立している。

 フランスの青年とアレッポのバス停で会い、道中の雰囲気は旅行気分十分だった。路線バスがテントの前で止まった。観光ベドウィンテントに誘われ合言葉のようなノーマネーに惹かれ僕らはテントに荷物を置きそれぞれ目指す遺跡群にアポローチをかけた。

 斜陽を受けて赤く浮かびあげるベル神殿、砂漠の中に突き出す列柱の大道り、ローマ劇場、記念門。佇む旅行者に手を振りながら羊を従え東から西に歩いてくるベドウィンの羊飼いと挨拶をかわす。パルミラのハイライトに長けたベドウィンテントの親父は誇らしげに僕らに接した。

 ずうずうしさと素朴さの素性を宿主に預けた私は、共通語がにがての英語であるような、口ひげを生やした端正な顔立ちのフランスの青年に食事の時間は主導権を渡した。親父の話し手は彼になった。
 フランスの青年は旅慣れていなかった。一晩泊まった彼は翌朝、持参のシートをお礼に親父に渡し早々と去った。二日目の遺跡めぐりを終え、私は今日は街に泊まろうと身支度をした。

 朝の路線バスは快晴の下、遺跡エリアを通過し、一路ダマスカスに向かった。遠くに見えるベドウィンテントから小粋な麦草帽子をかぶったスーパーマリオ似の親父が,悠然と朝陽を浴び私の乗っている路線バスを見つめていた。(2009.9)

2009年8月15日土曜日

シリア アレッポ、人間・HASSANの言葉




9月26日シリア
32ドル換金 1392ドル

 生きるということは、最高のものを手に入れるための戦いだ。人としての成長は曲線を描くのではなくストレートな歩みでいい。
    *       *
人は人だ。とにかく、どこにいても・・。
  Judat Hassan
    Syria-Drykish

 イスタンブールで過ごした時間は、この二年間の仕事の疲れを休めるためのものだった。出会った友は振り返ってみると不思議な感じがする。なにか触れたとたんに通り過ぎ去り、彼らは僕がこれからどこへ行くかを教えてくれた恩人のような存在だった。

 それからここシリアに入って、アレッポで大変気難しい青年にであった。強行軍から体を休め大部屋のシングルベッドで座っていると声をかけてきた。彼は哲学を勉強している様子で、アラビックを僕のノートに書き、英語でも書いた。それが上記の詩だ。日本語を書いてくれというので、名前を漢字、カタカナ、ひらがな、ローマ字表記で書くと、「日本語はこんなにあるのか」とびっくりしていた。こちらが説明すると、彼の表情が変わった。よくある、人を小ばかにした表情からまじめな顔になり「年はいくつ?」「26歳だよ」。とたんに態度が礼儀正しくなった。

 その一瞬のどぎまぎした表情は人間的で、世界はやはり共通な感情表現があるんだと思った。アラブの部族社会は年上を敬うという倫理構造があることを差し引いても、人と人の感情は外国人という何か知れない差の概念を超えて共通だということを、彼から教わり気づかされた。

 彼はソ連を信じアラブの開放を願っていると語った。明日、考古学博物館へ行って、ホームズ、パルマイアに向かう。

2009年8月6日木曜日

イスタンブール  カルタルの汗と匂い




9月15日
40ドル換金 1401ドル
イスタンブール旧市街波止場・エミノニュ~アジア側波止場・ユスキュダル経由漁村・カルタル

(記憶遥か)
夕方、ざわついたアジア側のユスキュダルからミニバス(ドルムシュ)に乗って郊外の漁村に舞い降りた。イスタン旧市街から二、三十キロ離れた漁村・カルタル。待ち構えていたように若者が私に紙をさし出した。クリーム色の紙にトルコ語で印刷されたメッセージ性の強いB5版のビラ。アナルコサンジカリズム(アナキズムの産業別組合運動)だ。オルグだろうか支持者だろうかミニバスの降客と親しそうに声を掛け合っている。いるんだなァ!政治的な洗礼をトルコに来て始めて体験した。ようやく汗と生活のにおいがする普段のトルコに出会うことができた。

海岸ベリにホテルを見つけた。英語が話せるマスターが出てきた。海が見える安い部屋でいいというと、部屋をいくつか案内してくれたがみな高い。もっと安い部屋はないですか?ベッドひとつで歩けるスペースもない二階の部屋を見せてくれた。
部屋は窓がひとつ。ムッとした空気にまかせた。海風にふかれるリゾートムードはいらない。私に相応しい郊外の短期宿泊が目的だったから文句は言えない。

翌朝、ホテルの食堂に来た人たちが、夕べとは違って普通に接してくれた。親日派のトルコ人にとって日本人がこの漁村にいることは信じられないことなのだろう。本家本元のイスタン中心街からちょっとはずれた港町でも。
それが、こうしてやってきた日本人に対し、遠来からの客として接してくれたからありがたかった。私にとって外国人を知るはじめての付き合いの仕方だった。

それにしても顔といわず体中が痒い。
「痒いからって、かいちゃだめだよ。シャワーを浴びるんだ」。若いトルコ人が教えてくれた。
南京虫にかまうな。どこへ行く。港を案内してあげよう。あいつも、こいつも俺の仲間さ。漁は朝早くだから、今は一段落だ。湾で泳ぐか。みんな呼んでくる。ボートに乗りな。写真、撮ってあげよう。気勢を上げてジャンプしたヤツが幼なじみさ・・・
貴重品を決して離さないくせがどれほどトルコの友にかたくなに見えたことか。一瞬、一瞬を感じながら三泊も過ごしてしまった。(2009.07)

9月23日
23ドル臨時収入 1424ドル
衣・家・食を詰めた登山バックの中で必要のない旅行携帯品は、売ることにした。

9月24日秋分の日
イスタンブール発バス便アンタクヤから隣国シリアのアレッポへ

 

2009年7月26日日曜日

イスタンブール 安宿の猛者(もさ)




(記憶遥か)

宿の大部屋を占領するベッドは金属パイプの野戦病院用ベッドと相場が決まっていた。この二段ベッドに日がな寝て暮らすのが貧乏旅行者の常だった。どこかへ出かけては寝、物を書き、本を読み、思案するのも自分の家、このいたについたベットだった。特に長期旅行者はベットにいる時間が長くなる。大休止したくなる。

イスタンに来てまず気がつくのは、旅行者の分類が容易ということだ。旧市街のスルタンアフメッドに大型バスで乗り込んでくる日本人は高級クラス。バックパックスタイルでも容姿がリゾート服で闊歩する若者は、ガイドブックにのっているホテル、宿に泊まる。イスタンに来た早々の私が通った道だった。そして、クチコミ情報で意気投合する旅の友の安宿が住み心地のいい私の住処。アヤソフィア・ジャーミィ近く、南の鉄道下のくぐり道の先に海があった。

「この本すごいね!」。日本語に飢えているためか感動ひとしお。4年間世界中を旅行して、ここイスタンで大休止を宣言した友に私が貸したのは、文庫本の「鴉の死」(金石範)だった。この本はぜひ読んだほうがいい、とあわただしい出発時に中国関連の城戸君が薦めてくれた本だった。 しかし、私には数少ない持参の本の中でもこの本はさっぱり頭に入らなかった。なぜか気もそぞろの中で読むような読後感のない昼寝時間の本だった。

城戸君には申し訳ないと思いつつ彼の声に私はあえて「うん!」と答えてしまった。韓国・済州島を舞台にした「鴉の死」は重かった。この作品で言う乗り越えなくてはならない屍を、私も乗り越えていかなくてはいけない何かを、感じることができないでいた。
    
それに比べ、四年間の長旅から語られる友の話はすごかった。アフリカでは一ヶ月のサハラ砂漠縦断にはズタ袋いっぱいのオレンジを救いの水として携え、乗り越えた。南米チリの政変、73年のアジェンダ大統領が反革命により殺された時は外国人が一斉に取締りの包囲網にあった。友は国境の有刺鉄線をほふく前進して隣国に逃げ延びたという。彼は読むべき作品を手にし、読むに相応しい友に手渡ししてくれると私は思った。

オートバイに乗った学生がイスタンに四ヶ月かかってようやくたどり着き安宿で武勇伝を語ってくれた。彼は船でインド・カルカッタに上陸し勇んで自前のオートバイを蹴っていざ、シルクロードを西に大陸横断に出発した。出発して40㌔ほどしてチェーンが切れた。炎天下を重いオートバイを引きずりカルカッタに引き返した。うれしかったのは査証の発行に時間がかかるイラクにあえて行った時だった。バグダッドに着いたときは町の人々が大挙押し寄せ歓待してくれたことが忘れられない、という。彼と最後に交わした話は痛烈だった。イスタンは住みよいなぁ、という私の言葉に間髪を要れず彼は反論した。「イスタンは大嫌いだ!昨日のうちにバイクがバラバラにされ盗まれた」。彼はすがるように安宿の友を見返した。次の日彼はイギリスに飛んだ。

 旅の日本人の噂話は尽きなかった。モロッコで外国人相手に商売している日本の女の子の話に沸いた。旅の友は皆、すごい!激励しに行こうと生きるための力に感服した。私はそこから思った。地中海を一周してスペインに行ってイスラムをもっと知ろう。あわよくばアルジェリアに赴任している従兄の足立のタカシちゃんに会いに行こう。イギリス長期滞在を見越して計画を練った。 (200907)

 

青春18キップ的すすめ 3 加茂郡坂祝(さかほぎ)にて







炎症にはきつい酒だった。やはり夜中と明け方に目が覚めた。梅雨明け前の昨日のムッとした湿気を忘れる冷気と青々とした稲の生命力のある匂いを思い出す床の中、夜中に出入りする気配もない田園の農家に一泊。戸締りの鍵はやはり必要がないのだ。

 八畳敷きが奥に延びた玄関の上がり間にのびのびと一人で寝る。四方の間は北にソファーとテレビの憩いの間があり左回りで荷物が雑然とあるが仏間だろう。その隣は夏蒲団が控えめにおいてあり、襖が開けっ放しで風が入り本来涼しく、音が響かない。玄関隣接のばあ様の部屋からはコトと音がしない。縁側は久しく見ない一間はあろう板間が堂々と伸び、千葉・多古の小池のお兄さんの家を思い出した。

 農家は平屋の佇まいだが、かっては蚕棚が二階に広がって、にぎわしくお蚕様のお通りで本家の財政を潤したという。

 7時、虫と鳥の音に誘われ玄関を出る。雲がたなびいている。農機具小屋の軒下に玉ねぎがぶら下がっている。トイレはここに二つ。離れ屋を含めて四、五箇所。自家用車等が計四台の豊かな兼業の暮らしぶりだろうか。藪を刈り込み種をまいた40坪ほどの畑にはスイカやうりがなっている。畑を見守るように小さなストゥッパ(仏塔)を抱えた道祖神らしき姿が鎮座。
 戻りかけて愛嬌のある純粋柴犬がしっぽをふって待っていた。あっち、こっちに犬の糞。鎖につながれても飼い犬らしくないでしょうと鼻を摺り寄せる猟犬・柴犬の普段の勇姿をみる。さて、朝の水田を散歩がてら見に行こう。
・・そうでした。離れ家にはご主人の若井さん一家がいるんです。

2009年7月4日土曜日

アンカラ  ヒッピー宿なんて知らない




9月8日
ボスポラスの船旅・・今日は無理だ。明日に廻すとしよう。イスタンブールに来てよく歩く。捻挫を気にせず歩く。することはひたすら歩くこと。今日もブルーモスクに行く。必ず行きたくなるところがあることはいい日常だ。何よりも怠惰な気分が広がらないことがいい。明日を考える楽しみ。どこへ行こうかなア、なんて日本での生活よりいいのではないかと思う。

(記憶遥か)
 トルコの首都、アルタリア高原のアンカラに行った。初の小旅行はイスタンでの情報収集で貧乏旅行者の間で関心の高いイスラエルとアラブの抗争が現場でどうなっているか、これを大使館がどこまで把握しているか、行くにあたってどんなアドバイスをもらえるかに関心があったためだ。その期待値は0%と踏んでの大使館訪問だった。

 と、いうのもアラブにおける日本大使館の親切度を相部屋の日本人旅行者と話しているとき、あまりに大使館員が邪険にするのでパスポートをかざして、かれは読み上げたという。
日本国外務大臣告「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。」

 その行動で相手の態度ががらっと変わった。彼は溜飲を下げたそうだ。ためしにひとつ自分もやってみよう、ということにした。友人である外務省図書館の鈴木女史にお土産話の一つでも、という気楽な気持もあった。

 アンカラの大使館員は30歳近く。「よく来ました」というにこやかな話から始まって、これから自分はとりあえず南下してシリア、というところにくると、宿はどこ?と問われて大部屋の外国旅行者が出入りする安宿というと,係官はつい最近イズミールに行ってきた話しから始まって「ヒッピー宿か!やめたほうがいいよ!」という。席をはずしたら、後輩と思しき少し若い係官に交代した。落ち着きのない大使館の対応を感じた。「渡航禁止ではないですが・・」とくるとなにをか言わん。

 まず、安宿に泊まるのを侮蔑し人を敬遠して、保護扶助のモラルも忘れ・・収穫はそんなところだった。 (2009.07)
 

2009年6月21日日曜日

イスタンブール 私文書偽造作戦




9月7日
 トプカピ宮殿、財宝の館。トルコ政府の財産である。イスタンブールの街を歩きトルコという国の歴史、重みを感じてくるに従って、トプカピ宮殿とは不釣合いのような気がしてきた。遥か昔のコンスタンチノーブル、今のイスタンブールの自由港の雰囲気を持つ開放感も歴史の重みを観光に依存することの違和感を感じることと同じく僕には、なじめないものだった。

 宿舎の日本人が多くなってきた。だんだん宿とイスタンブールの街を行き来する日常に疲れてきた。早くも気力がなくなってきた。風邪を引いたようだ。少し気を引き締めよう。

9月8日50ドル換金
計1441ドル

(記憶遥か)
 イスタンブール(イスタン)はこの旅の出発点であり、拠点と私は旅行前からふんでいた。ここから日本に行く。それは日本に帰るわけで、味気ない旅のひとつの選択肢だった。

 そうではないようにしたかった。とりあえず、ここを拠点に西・南・北へ旅立ち、再びイスタンに戻ってくる。そうでありたいと思った。それが折り返し点であるイスタンの私の立ち居地だった。

 イスタンに着いてから、観光見物に出かける生活のリズムと同じくヨーロッパへ、アジアへ行くにあたってその方法論を頭の隅においていた。 持参のガイドブックに頼り、日本人の貧乏旅行者=バックパッカーとの情報交換から得た一つのテーマだった。

 私は国際学生証明書、ステューデントカードの取得にかかった。ヨーロッパに行くと鉄道のユーロパスが便利だと旅行者から聞いていた。割安の飛行機券を手に入れるにはカードが有効という話だ。とりあえずバンコク発日本着の飛行機券を持っていたかった。帰りのキップがあれば気が楽になるという、慎重派が当時の私を占めていた。帰りたくなったら帰ったらいい、という安心感が欲しかったんだと思う。

 イスタンに到着後慣れるまでガイドブック通りの安宿に泊まっていた。ホテルのロビーから階段に上ろうとしたとき、学生風の日本人旅行者に出会い、カードの話をした。彼はすでにイスタンにはなじんでいたよう様子で、まず学生でないものが学生になる。偽の学生証を作ることをおしえてくれた。

 彼が持ってきたのは、日本から持参したお茶漬けの袋だった。中には永谷園のお茶づけのふりかけの名刺大の説明書。薄いコート紙に印刷した本文と裏は広重の浮世絵が描いてある日本情緒の一品だった。私と彼の言い分は「日本語なら大丈夫、トルコ人にわかりはしない」。さっそく意気投合して身分証明書の偽造に取り掛かった。

 国際学生証明書の取得は簡単だった。持参の書類も軽く目を通しただけで証明書を発行してくれた。かなりいいかげん。ステューデントカードの信頼性に自分でも疑問が生じるほどだった。それをもってガイドブックご指名の旅行社に行った。

 カードの効力はやはりなかった。トルコ人のその窓口の男性はカードではなく、偽造の日本語の学生証と私をチラッと見て「日本の学生であることを証明する書類が必要だ」とニヤッと笑いながら言った。日本領事館に行ってお墨付きをもらって来い!だって。 万事休すになった。ホテルに戻って日本人の彼と成果のない成果を笑いながら話し合った。結論は旅行社が悪い、次を探そうということになった。(2009.6)

2009年5月17日日曜日

青春18キップ的すすめ 2




  久しぶりの老人ののめりこんだ会話に生活の襞を知った。山陽本線の基点である網干(あぼし)から岡山に向う車中。すでに陽は落ち、車内はポツポツと空き席が目立つ。もう少したつと岡山駅だ。三人連れの老婦人の四人掛けの椅子に相席となる。

 岡山弁でまくし立てるおしゃべりの時間。「わたしが懇意にしている社長さんは、毎日写経する。写経するといいことがある。会社はうまくいくし、社長さんもすばらしい人よ」「子供さんが受験や就職のときは写経するといい。試験は合格するし、いいとこに就職できるのよ」「写経しないとろくなことはない。病気になったり、家に不幸がやってくる」。ざっとこんな調子で一人の老婦人がまくし立てる。
 それを聞いている同行の一人の老婦人はあいづちをうち、一人はニコニコしながら聞いている。何か説教場の一幕を見ているような。おしゃべりをする老婦人は、話しながら今度は、家に携帯で電話して途中駅に息子さんに車で迎えてくれないかと、連絡する。

 旅にでると人は感性が豊かになる。さらに帰路、自宅に近づくと感性が鋭くなると、この場面はそういいたそうだ。よくはコックリ、コックリ居眠りしながら旅のおわりの時間をかみ締めるもの。旅のそのぐらいの出来事のちょっとした話だった。でも、僕にとっては、人と人のつながりをこういうかたちで垣間見ると暮らしというものが遥か遠くにあるような・・印象に残る時間だった。 

 鳥取駅から山陰本線で浜坂を通過し城崎温泉に向う。単線の列車は二両編成のワンマンカー。過疎の代名詞のような鈍行列車にまだ慣れない。先頭車両で簡易装備の運転席を何気なく見ていると、カメラをぶら下げた男女が入れ替わり立ち代りで前方を見つめ、両側の窓から体を乗り出し、さかんにシャッターを押している。これが鉄道マニアのカメラ小僧かと、唖然とした。

 ところが、唖然としてはいられないのがわかった。ここは難工事で知られた餘部(あまるべ)鉄橋。山陰本線のハイライトだ。餘部駅にかかる高さ41㍍、鋼材をやぐら状にくみ上げたものでは日本一の橋脚の妙が鉄道ファンのメッカだったことを思い出し、あわててカメラのシャッターを押す。失敗した!

 
 城崎駅の温泉街の雰囲気に別れを告げ、列車は一級河川の円山川を南に福知山方面に向い、一路京都を目指す。この河川の両岸は広い田園と市街地が交互に続く。寂しげな 山陰の山里、海里から京に結ぶ交易の歴史回廊に入ったことで気持ちが落ち着く。運転席では、新米の運転助手の青年がおおきな声で盛んに点呼の声をあげ、教官がうなづいたり、助言を与えたりでなんとなくのんびりとした気分が列車に広がっていた。

 11時、車両待ちの列車に呼びかけるような、ゆっくりとした声が路傍の拡声器から解き放たれた。「本日、午前10時×分頃、北朝鮮から飛翔体が発射されました・・・」。シーンとした車内の後列から男子高校生の声が聞こえた。「発射したんだってサ!」。物語の語り部のような伸びやな声だった。        

2009年4月26日日曜日

18きっぷ1~2






「青春18きっぷ」のすすめ 1


うき がく



 ~小田原<東海道本線>~大垣<東海道本線・山陽本線>~米原<山陽本線>~岡山(泊)~<伯備線>岸本~<伯備線・山陰本線>鳥取(泊)~<山陰本線>京都―新幹線(帰宅)  山陰本線、園部から快速で京都駅に着いた。日曜の嵐山方面からの帰りの花見客の便と重なり大変な人ごみ。この旅の桜めぐりは正解だったが、ゆっくりとした旅とは対照的なハイタッチな送迎に戸惑いを感じた。ホームに下り改札に向う途中で、元アリスの谷村新一のポスターになにげなく目が射った。「Club Discover West」。Discover Japanを思い起こし、この三日間の各駅停車の旅が日本の僕の旅型なんだ、と一人合点した。  旅行中の会話は今回はないに等しい。桜前線を南下、目と耳でその時候の空気を感じとった。  




 東海道本線、興津駅から米原行きに乗り換え山側の席に座っていると、還暦旅行のような同年代の夫婦づれが近くに座った。二人はよくしゃべる。うとうとしていると藤枝を過ぎ六合(ろくごう)駅。車掌が出発を告げると奥さんと思しき人が「小田急線にも六合っていう駅があったわよね」といった。私は、それは六会(むつあい)駅でしょう。六合は群馬の六合村と同じ読み方だ、と思い同時にこの人達は同じ神奈川県人じゃないか、と各駅停車の旅を楽しむ同士に会った安堵感楽しんだ。



 静岡の各駅は政令指定都市の浜松、静岡や新幹線が止まる三島を除くと駅舎はローカル駅並みの落ち着いた造りなのに驚く。これが太平洋ベルト地帯の輸出花形産業のメッカなのかよ、と思った。  舞阪あたりだったと思う。その間の沿線に咲く桜の満開飾に慣れきった中で、その駅の車窓から見える上りホームには桜吹雪が舞い散る佇まいがあった。窓から線路越しにホームを見ると、次々に黒っぽい服を着た若い人たちがホーム下の階段から上がってくる。男女ともに同じような持ち物と服装から入社式の帰りだな、と推察した。ひとりの若い女性が上がり口から10㍍程行ったところで携帯電話を取出し、盛んにメール操作にかかった。するとちょっと遅れて上がってきた同じ年代の女性が、携帯の女性を通り越して、思いついたように振り返った。とたんにその女性は飛び掛るように携帯の女性に抱きついた。あわてた携帯の女性も周りを気にしながらもその女性の両袖をつかみ両人ともに飛び跳ねた。よっぽどうれしかったんだろう、こんな時しか出来ない、という風に。こんな時に会えるなんて、という風に。せっかく就活し、採用されても入社できない新自由主義の末路に巻き込まれる新人の悪夢があるというのに。気持ちのいい時間と場面と若い人に出会った。

2009年3月22日日曜日

さらば、ウイグル 漢族のバス連




漆黒の闇の中を、バスは快調に飛ばしヘイズ村に無事着いた。ウイグルのバス連はバイチャンへ、僕ら三人はここまで。長い一日がようやく終わった。とはいえ、バス停の周りは朝の賑わいを見るような、バスの到着と合わせた商売おばさんの活躍が再現され、ビリヤード周りは煌々と明かりに照らされていた。

今夜の泊まりは、ワンの交渉で素泊まりの民宿になった。一人一元の超格安の簡易ベッドが月明かりの中で僕ら三人を迎えてくれた。僕はいつもの封筒型の筒状の敷布とハーフシュラフにもぐりこみ、相棒にバスの漢族のおばさんのことを尋ねた。ワンと漢族のおばさんのよそよそしさが帰りの車中で見られなかったことが気になっていたためだ。

 彼女たちは山東省から新疆に来たという。山東省はワンの縁戚の人がいる沿岸の地にあたる。彼女たちは新疆に来てすでに10年以上経つ。自由に居所を変えられない中国事情から望郷の思いは強く、その寂しい思いは中国語を話せない僕のことにも触れ、気にかけてくれたそうだ。

2009年3月7日土曜日

「あなたは、どこから来たんですか」




  時間はすでに6時を過ぎていた。陽が落日に近づくとはいえ、空の蒼と霞んだ遠景がマッチした帰路の時間を、僕らはゆっくりとかみしめることが出来た。ワンと相棒は帰りの集合時間を承知済みだった。僕はといえば、あたふたとついていく のみ。降車位置にバスが待っていた。

 チャーターバスの乗り心地は最高の出足だった。ウイグル人のさわがしいバスではなかった。場をにぎわす連中はアルコールのにおいを漂わせ早々と眠りの時間に入っていた。 加えて、ワンと同じ画家である朝鮮族・韓楽然の落書きとの劇的な出会いが僕らに余裕を与えてくれた。小窟でワンが僕を見つめながらニコニコ笑っていたのは計算済みとみてよさそうだ。即席の朝鮮族になった僕は、ワンが新疆と東北地方の距離と半世紀の時間をかみ締める虚像として彼の舞台に登場した。写生旅行に同行した甲斐があったというものだ。

 そんな夢のような時間は、ガタピシのバスのせいでかき消された。千佛洞に一気に下る急坂を今度は一気に昇る試練が待ち受けていた。運転手は頭をピシピシと鞭を打ちアクセルに願いを賭けた。バスは急坂を上りきったところで止まった。いよいよ帰路の試練に直面し、乗客は一斉にバスを降りのぼり坂のじゃり道を歩き出した。僕は歩きながらニコニコと漢族の二人の婦人に会釈した。とたんに二人は大声を上げののしった。「お金も出さないでバスに乗って。なんなの!」

 僕は躊躇せずバスに向けユーターンした。確かにずうずうしい旅人だった、僕たちは。相棒とワンが上り坂の前を歩いていくのも忘れ僕は、ヒッチハイカーである僕にようやく立ち戻った。坂のこぶに止まっていたバスの下にもぐりこんだ運転手が盛んに工具を広げて車をいじっている。周りには、腕組みして路肩に寝ている黒のサングラス。おおば比呂司のおじさんも肩を並べてひっくりかえったまま。故障車の周りには慣れきった10人余のウイグル人が佇み、マドロスガイの先生が話し込んでいる。

 そんな小時間も運転手が運転席に戻り、いよいよの段取りになってきた。僕はバスの後ろでスタートを待ちわびた。とたんに、今度はマドロスガイが僕に駆け寄ってきた。「あなたはどこから来たんですか?」
僕は、アッと声をかけようとする、そのタイミングに合わせありがたいことにバスが動き出した。

 押せ!押せ!僕はうおーっとウイグル人も共通のうなり声に賭け、ひたすら隣のおじさんのヒゲずらをみながら必死にバスを押した。うなり声が車輪に乗り移りバスが動くタイミングに合わせ、僕も乗り込んだ。


 そして、バスはまた止まった。僕は肩の鞄を袈裟懸けにしてひたすら砂利道を歩いた。曲がりくねった上り坂の先で相棒とワンが 立ち止まっていた。相棒は川原の石投げのようにサイドスローでじゃり石を谷間に投げた。それはどう見ても日本人に身についたパフォーマンスで、日本人の生活習慣だよ、って一声声をかけたくなるものだった。 バスが僕の前をうなり声を上げ通り過ぎていく。こぶを越えバスは消えていく。そのこぶに歩きついた僕の目の前にバスが止まっている、ひたすらの時間が続いた。

 そしてまた・・バスの前に乗り合いの小型トラックがバスを牽引する様子が目の前に迫ってきた。ヘイズで待ちわびた乗り合いトラックが帰路の先達になったおかげでチャーターバスは最後の難関に差し掛かった。トラックのうなり声に合わせバスが動く態勢にはいった。今度は坂上の相棒、ワンも駆け下り僕たちは一斉にバスを押した。坂の台地上でようやく一息ついた。校長先生とマドロスガイが握手を求め僕らに駆け寄ってきた。急激に、お互いがどんな様子なのかもわからなくなる暗闇が包み込む時間が迫っていた。

 外は漆黒の闇に入った。それからのバスは平坦な道に支えられ快調に飛ばした。車内はまた今朝の騒がしさがよみがえった。ワンは僕が渡した解放軍水筒の冷たい水を飲み、漢族の婦人、ウイグルのおじいさんと次々に回し、飲み乾した。

2009年2月2日月曜日

キジルの落書きは中国を語る


 見学コースに乗る答えを出したのは、ワンだった。ワンは正攻法で難題の扉を開けた。千佛洞の入り口にある管理事務所を尋ね、壁画を見学する案内を頼んだ。ワンの中国画人であり大学の研究者の権威がものをいった。

 相棒と僕は、ワンに呼ばれ管理事務所に入った。管理事務所は日干し煉瓦で作られ部屋はヒンヤリとし、ベッドが二つと机が雑然と置いてある男所帯の部屋だった。
三人の漢族がお茶を煎れ歓待してくれた。彼らは、この千佛洞に半年常駐しているウルムチの考古学出版社の社員を含めた研究者だった。ワンが彼一流のウイットを込めて僕らを紹介した。

 ワンは、相棒が留学先のハルピンから北京経由でなく上海経由で日本に戻る行動範囲の広さに敬意を評し「中国語の発音の中でも難しい巻き舌の発音に慣れていない上海人」と告げた。そして、僕は朝鮮系中国人になった。ワンは写生旅行で中国・東北地方の吉林省や黒龍江省の奥地に行き、そこで出会った朝鮮族の人達は中国語を話すでもなく朝鮮語の文化圏を守る人たちが居ることを念頭に、僕を紹介した。僕は中国語を話さない朝鮮族になった。

 その事務所は千佛洞のセンター機能を担っていた。研究員の一人が案内してくれることになりまず、先の招待所に戻り詰め所の案内係の漢族の男性を紹介してくれた。いよいよという時、見学コースのとっかかりで、回廊にいた僕を見上げたあの漢族の壮年男女二人に出会った。

 我々が遠路はるばるやってきたと紹介してくれた研究員の言葉が終わらないうちに相棒に向って一人が「あなたはさっき、北京から来たといったではないか」とちゃちをいれた。単独行の見学の時、相棒が窟にかかっていた木のか細いはしごを昇り撮影していたことをとがめた当の本人が問い詰めたものだった。その場はワンがうまく取り繕った。意地悪そうに相棒を見据えたその女性研究員の苦言は、我々三人の嫌疑に転化しそうなモードを僕は感じた。キジルの見学はオープンではないのだ、というその女性研究員の強い姿勢を見せつけるものだった。

 見学コースの石窟の一群にようやくたどり着き、窟を巡った。石窟の中は、人為的な破壊が覆うべきもなかった。その中で壁画の時代時代の形式や仏教説話の有様を研究員が説明した。濃い墨で描いた顔の輪郭、飛天の表情、仏教伝来図、東西文化の交流を陽の壁画の世界。これに対する満身創痍の壁画は遺跡巡りの我々に陰の世界をみせていた。僧房窟では入り口近くにオンドル跡が残っていた。その窟には絵巻が一部分残り天井を飾っていた。ある窟では側壁の下の部分の壁土の色が変色していた。修復が進んでいる窟の下層の窟が水害の被害を受けたためだ。ムザルト河の増水は、時に20㍍以上になり石窟が水没してしまう。側壁が上下色違いのまだら状になる説明は、研究員ならではの指摘であった。

 何年か前までキジル村が人民公社であった時、窟がヤギ小屋代わりに使われたことがあり、壁画は泥を塗られた。文化財に対する無理解があった。その一方で、文化財に対する人々の思いを知った。窟は天井絵、壁画がすべてだと思っていたがそれだけではなかった。第三十八窟に入った時、主座の仏の壁画がすっかり削り取られていた。扉からの光だけが頼りの薄暗い窟の前壁・窟頂前部には仏絵がわずかに補うように描かれていた。その仏像画が抜け落ちている足元に顕花やお供え物、賽銭が供えられていた。ホッとする瞬間だった。

 その行いは僕には以外で、観光コースに乗らない現代のキジルの素朴な営みに感動し、思わず天井に向けて隠し持っていたカメラのシャッターを押した。相棒にさとされた僕は薄暗い石窟から外の明るい場所に体を移した。「疲れる。日本人とはっきり言いたいなあ」。ため息混じりに吐露した。

 その胸のつかえをさとすような出来事に壁画の世界に華を添える最後の房窟の十窟で出会った。その主房窟の隣の小窟には朝鮮族のメッセージが時代を越え鮮やかに墨跡されていた。

 「私は、ドイツのVon Le Coq著の「新疆文化宝庫」及び英国のSir Stein著の「西域考古記」を読み、新疆に埋蔵されている古代芸術品が甚だ豊かであることを知り、そのようなものがあるなら新疆へ行こうと思い立ち、一九四六年六月五日二人で当地を訪れた。
 その壁画は目を奪うばかりに美しく、全てが高尚で芸術的価値があるのを知り、わが国各地の洞窟廟の管理に及ばず、惜しいかな多くの壁画が外国の考古学探検隊によって剥がされ、持ち去られたことは全くもってわが国文化上の一大損出といわなければならない。
 私はここに十四日間滞在し、油絵の具で模写を何窟か試み、幹部役人への報告のための十分な準備を整えた。
 翌年四月十九日には趙宝麟、陳天、国強孫必棟等と共に再びここを訪れた。
 まず、七十五の洞窟に正しく番号をつけ整理し、その後分別、模写、研究、記録、撮影、発掘を行い六月十九日にとりあえず一段落することにした。
 古代文化に一層の輝かしさを加えるために参観者諸氏の格段の愛護と保護をお願いする。
        韓楽然 六月十日
 最後に十三号洞下に一組の洞窟を掘り出した。計六日間、六十人の使役を必要とした。壁画は斬新でこの洞窟を特一号と名づけた。
     六月十六日         」
          (松岡秀直訳)


2009年1月14日水曜日

冒険ごっこは、これだからやめられない


 キジル千佛洞は入門ゲートを境に管理されていた。ゲートが開きバスは緑の樹園のじゃり道を周遊し止まった。ウイグルの一隊は車中のダンボール箱を運び出していた。足の踏み場もない車中の事情がようやくわかった。大量に積み込まれていたのは酒類だった。

 息苦しいバスから開放される間もなく、今度は僕たちが見学者のカオを取り戻す時間になった。
新疆・天山の裾野に拓くキジルは敦煌・龍門・雲崗と並ぶ中国四大石窟の一つで、三世紀から十世紀頃に造営されたという。約二キロの範囲に約三百の石窟と壁画が残存する。永年にわたる自然劣化と盗掘や異教徒、ここではイスラムや日本を含めた外国探検隊から受けた破壊によって荒廃が進み、それは現代に引き継がれていた。

 石造りの無骨な二階建ての建物が樹木の間から現れた。その建物のテラスの上には御影石の石碑が立っていた。千佛洞修復保存協力会と刻まれたその石碑は日本と中国の民間交流会が中心になったキジル石窟の修復のために設立した基金の記念碑だった。ところが、この記念碑にふさわしい遠来の客、多分外国人観光客を歓待する接客所になるはずの館が荒れ果てていた。

 扉が開いたままの荒れた館内に入った。二階に駆け上がる。階段上の部屋の扉が封印されていた。「九十・三・二十」の印は最近のこと。天安門事件で日本との関係が悪化し、観光客激減の余波は西域の地まで及んでいることがわかる。

 接待所の外でワンを見つけ手を振る。宿探しに行った相棒をよそに僕とワンはお土産屋で目ざとくビールを見つけ、ウズベク人に負けじとピクニック気分で小休止することにした。

 戻ってきた相棒によると、宿が見つからず日帰り旅になりそうだ、という。しばらくは、レンガ造りの家を見つければ人探しから、宿探しのローラー作戦を始めた。それが徒労だと悟った僕たちは、千佛洞の本格的な見学に気持ちを切り替えた。既に北京時間の四時を回っていた。

 バスに同乗していた女の子が忙しそうに働いていた。彼女は商売のために来ている串焼き屋さんだった。開店準備に忙しそうに働いている。重い荷物はお土産屋の娘さんに預け僕らはお互い合図を送るようにして個人行動に切り替えた。僕はまず、谷間の奥に走った。

 木々の間を抜けると砂岩の崖が迫り小さな渓谷にたどり着いた。そこには水音を響かせるかなりの水量を集めたソグド溝の“涙の泉”という名の滝が流れ落ちていた。チャール・ダク山を望む崖の下は、土砂が扇状形に堆積した扇頂部になっていた。天山から流れた水が砂漠にもぐり、伏流水になって再び現れた。水は滝になって崖から本流のムザルト河に流れ落ち、堆積した扇端の肥沃な土壌に樹木がおいしげっている。

 この緑のオアシスの後背になる崖はソグド溝を境に二つの教区を形成していた。石窟は仏教壁画を描くためだけではない。僧侶の生活の用に充てた庵であり、礼拝の場、断食の場等宗教活動のみならず時に羊小屋、牢屋にもなり、かまどを備え貯蔵庫にもなった。石窟は人の気配が共存する場だった。

 僕は滝から目を崖に移し、入り口を木戸で閉ざした石窟を左右に見渡した。石窟は修復が進んでいたが、転々と木戸で閉ざされそれぞれが独立し、窟にたどり着くルートは外からは限られていた。 僕は土砂が積もった扇頂に駆け上がり天山の水が目の前を滴り落ちる滝つぼを冷気の中で見つめた。

 再びおぼつかない頂の足場から駆け下った。そして、ソグト溝の帰り道を振り返ると、木陰の合間から降りてくる見学人の中にビデオ機材をもった西欧人二人を見つけた。彼らをやり過ごし、同じ類の外国人がいる、と一人合点した。

 落ち合った場所で、僕たちは成果を話し合った。相棒は足場が崩れた危険な木の階段を登り木戸越しに石窟の壁画を撮影し、ワンは木戸の鍵に閉口し、下から石窟を見渡すにとどめたと一人難儀していた。相棒は石窟の下の窟跡で散在した骨を見つけた。脆い砂岩の砂山に隠れているであろう石窟の発掘に興味を示した。ちょうど、僕たちが立っている場所が崖の土砂を積み上げた場所だっただけに、想像力は増すばかりだった。

 僕たちは西に行動範囲を広げた。黄色い柵の上部がペンキ色も鮮やかなコンクリート回廊の石窟の保護地区に足を踏み入れた。ところが人一人出会えず、石窟の扉は錠前で閉座されていた。

 僕は、真新しい手すりに佇んだ。ムザルト川の対岸の褶曲した岩壁が視界に広がり、眼下にはポプラの樹林が炎天の熱を冷やすようにすくっとそびえていた。
僕は回廊を上下し柵から身を乗り出し衝動的に叫んだ。するとカメラを首に提げた漢族の中年男女が何事かと見上げた。下からはカラフルな民族服を着た子供たちが階段を昇ってきた。ここまでの収穫はウズベクの子供たちの笑顔だった。石窟の扉を開け壁画を見る期待感が高まった。

2009年1月4日日曜日

党政治学校は悪路を好むのだ

僕らは最悪の渦中にいた。
「学校が何しに、こんなところに」
相棒「教職員と一緒にピクニックに来たみたいよ」
荒削りな学校のあの先生、あの職員のパワーには度肝を抜かれていただけに、その正体露見は意外といわざるを得なかった。

見物時間は終わった。再びバスの時間だ。工事現場が観光コースになったダムと町並みに別れを告げ、道は快適な舗装路に変わった。そして、シャベルカーで削ったままの未舗装のくねくね路にさしかかり、バスは強引に突っ走った。デコボコのジャリ道に揺られ渓谷の谷道を探すようにバスは急勾配に差し掛かった。運転手の必死なギアチェンジの恢もなくエンジンが止まった。

その時の車内は目的地に向かう勢いで沸きかえっていた。その中で一人浮いていた運転手が硬いギアを願うようにローに入れた。両手でツルツルの頭を抱え、はたき、次には両手でギアに力を込めエンジン始動に集中する。二度三度繰り返すその必死な努力が実った。バスの発車が車内に沸き起こる拍手で迎えられた時、車のうなり声は再び祭りのリズムに乗った。

しばらくすると、赤ペンキで板書したキジル石窟の案内看板をバスは見つけ、ゴビの中を南に進んだ。 このゴビの道は干上がった川底を走るようなものだった。道は天山から押し出された堆積した土砂の厚い流出物の上を滑っていた。ムザルト川の断崖を眺望する大地の上に堆積した砂岩の塊は風と温度差、時に雨の恵みで地形を変える。それも長い時間をかけ、少しずつ変化する。今度はラクダ草も疎らな道なき道がしばらく続いた。

ここでは人為的な道作りは自然の流儀に任せるしかない。道の勾配も大地の自然の動きに任せ、タイヤの跡がこれを忠実にたどったとわかる。バスが上下に揺れ、川を望む断崖の道に差し掛かった。

眼下にムザルト川が陽に輝いている。南にはくっきりと褶曲した岩肌を残す対岸が連なり、褐色のまだら色が前面に広がった。川に沿ったチャール・ダク山の砂岩の岩肌を望みながら脆い崖道を舐めるようにして急勾配の坂道をバスはあえぐように登った。
崖を左にところどころに木戸で塞いだ洞窟が見える。ようやくバスは石窟郡にたどり着いた。砂埃が舞うじゃり道を駆け抜けるように眼下の緑の樹園を目指し、バスは一気に崖道を下った。