2010年12月26日日曜日

それがローマだ




10月31日(金)
パンがほしいとたった一言
会いたい人はいない
お金はない

パンがほしいとたった一言
お金を無駄にしないために
こころのなかで泣いている

ひとりの時間が重たくて
前を見るのを忘れてた

そうさアルジェのおじょうさん
ぼくの心はここになく
ぼくの思いは孤空にいて

チュニジアの町はいたるところにフランスがあふれている。アフリカのようでアラブのようなそれを上回る世界にかんたるフランス文化がまかり通っている。トラベラーズチェックをなくしたことから、イタリアに行くのに船がいいか飛行機がいいか迷った。安くするにはと、インターナショナル・ステューデント・カードの威力を試した。ところが言葉はフランス語一辺倒。相手の目線は上から見下ろしているような、お客に接するというより一段下の人間を見下すよう。チュニスの町では女性の目線が人をバカにしたように感じる。ローマに行って・・うまくいってほしい。


11月5日(水)
チェックの63㌫にあたる500㌦をローマのシティーバンクでうけとった。残りをうけとる先をアフガニスタンのカブールにした。これからのバスと観光地との振り子のような関係が地図の上ではひたすら東に伸びる。そのインターバルを考え決めた。すべての道はローマから。

今日はサッカーの試合を見た。 ローマのオリンピック会場を巡っていたら熱気ムンムン。 試合会場は大勢の人でサッカー場の周囲の網が破られていて、人々がかってに中に入っていく 。僕も紛れ込んではいっていったら、イタリア人が声をかけてくれたり会場は興奮状態でままよ、と写真を撮った。

ローマの香りは枯れ葉を透き通った川に投げ捨てる時の風のにおいをかいでツンとする感じだ

川には箱舟のようなしゃれた船が岸辺に浮かび 日光浴を楽しむ人やデッキには太陽をあびた洗濯物が干してある

ほんのちょっとにおう温かみのあるすえたにおいはなんだろう 枯れ葉を掃除した後のちり芥 ほんのり残るバスの中ですれ違った人の甘い残臭

ローマの女の人は美しい 真夜中のローマ駅で立ちんぼうする人は手を振ると倍の振りようでこたえてくれた 早朝のバスの中で道をおしえてくれた人はパッチリ目を開いて映えたグリーンのケープコートもあざやかに颯爽と町にとけこんでいった

町には歴史があり埋もれている遺跡は時を超え人々の望みをつつみこんでくれる

たそがれ時の並木はなぜかローマにピッタリの緑色 人々は町並から家路にいそぎ食卓をかこむ
それが僕のローマだ

(記憶遥か)
チュニスからイタリア・シチリア島経由の船便で長靴のつま先にあたるナポリに着いた。船ではイタリアの映画監督であるパゾリーニの変死が大々的に紙面をかざっていた。それをおしえてくれたのはデッキで新聞を読んでいたバックパッカーのフランス人の若いアベックでパゾリーニが若い男に殺され、ホモ同士だったという話だ。私はパゾリーニの「カンタベリー物語」を見たことがあるので、その印象を二人に伝えた。映画は中世ヨーロッパの庶民の性をオムニバス形式で開放的に映像化していた。私は木の上で若い男女がセックスする場面が強烈な印象だったので二人にそれを話した。その時の英語力のない会話と二人にはいやらしいことをいやに平気で話すヤツだと思われたもんだから、アベックの男性との会話がぎこちなくなって、それは私ではなく相手の男性の落ち着かない表情からなんとなく感じたものであって・・つまりアベックに話さなくてもいいことを口をすべらしてしまったのだった。私が二人に話しかけても逃げるように、避けていくように消えてしまった。








2010年11月30日火曜日

馬乳酒はもてなしの心











(来るな!来るな!)
 僕は小さくなって声をころした。来てもらっては困る人がバスに乗ってきた。検問だ。一人の係官がバスの後列にきた。チラッ,チラッと乗客を見回し、最後列の僕たちに目を向けるとサッと手を半身にあげ、僕と相棒に来るようにと合図をおくった。僕らはあたりまえのように無言で下車にかかった。その率直な反応は来るものが来たという覚悟をきめていたからだった。

これより前、路傍の町であるチャオ・マー・マーを通過してから僕は急いで名刺を処分することにした。ジャーナリストの身分がわかると面倒だ、という杞憂からはじまったことだった。名刺入れのなかに残っていた名刺をすべて細切れにして花吹雪のようにバスから後方に放り投げた。それこそほこりに舞う白い紙の乱舞に賭け、僕はようやくホッ、とすることができた。ところが、バスの前に目を向けると運転手の若い助手さんがニヤッと微笑んでいた。知ってか知らずか僕らをよくみているのだった。

 緊張をかみしめながら、僕たちは係官を先頭に検問所のいかついコンクリートの事務所に入った。部屋に入ると僕たちはパスポートを次席の係官に渡した。僕はあぜんとしながら所長らしき係官の大きな、はきはきとした声を聴きながら彼の動作を見つめていた。目の前の所長らしき係官は体格と顔つきからみてハザク人らしかった。所長はパスポートをいじりながら中国語で話しかけてきた。相棒がひとこと答えた。話しが分かってきた様子で、所長は書類に記帳し僕らにパスポートを返してくれた。あっけない程淡々とした事態に僕は拍子抜けしてしまった。結果的に開放都市間の移動はその間に山があろうと正当性はあたっていたのだった。

その数分間の時間、事務所の蛍光灯の白光色はまぶしく、それが外に出るといつのまにか夕日をあびた空が真っ赤に染まっていた。事務所の外には路傍につないだ馬が二頭、鞍をかけた馬のそばにいる牧夫二人が山野から帰ってきたほこりまみれな体で僕ら二人を待ち受け、その一人の若い牧夫が茶碗の飲み物を飲むように勧めてきた。

欠けた陶器の茶碗にはなみなみと注いだ乳白色の液体が盛られていた。勧められた僕たちはそれを一気に飲みほした。ぼくは、それが酸っぱいヨーグルトの味がする馬乳酒(クミーズ)だとさとった。

それからしばらくして、ハザクの警察官が二人乗りのサイドカー付きのオートバイで乗り付け、僕らはサイドカーに便乗することになった。オートバイは闇夜のなかを一時間ほどかかった夜9時過ぎ、新源の招待所に到着した。

僕と相棒はその後、イリ(伊寧)経由でウルムチに戻り次に列車とバスを乗り継ぎトルファン、敦煌に行き、青海省のゴルムド(格爾木)まで挫折なく旅を続けた。青海省の省都である高地・西寧からようやく北京に戻る最後の旅の車中、僕は一冊の旅行記を読み終えた。硬座寝台車の三階に寝ていた相棒に僕は声をかけた。「中国西域の少数民族と漢族の関係は16世紀とほとんど変わっていない。漢族は当時も嫌われていたんだ!」。

そしてロシアの探検家であるプルジェワルスキーの「黄河流域からロプ湖へ」(世界探検全集、河出書房新社)を閉じた僕は相棒に付け加えるように言った。「あの馬乳酒は遠来の客を歓待し、もてなす親愛の情をあらわしているんだ」。僕たちの長旅はようやく終わった。(完)

(冒頭の写真は国境の町、伊寧にて)


















2010年11月7日日曜日

青春18きっぷ的すすめ 7 森の仕事 森の幸 ~諏訪郡富士見町沢入山 3













昨夜は義兄の昇さんともども眠れませんで、枕と敷布団の弾力は歳をとるにつれ必須であります。その削がれた勢いが長坂から青木の森にグウーンッと車の高度を上げると木こりマインドに変わった。ナラ科の元気のいい高木が斜面に陽を入れるのに邪魔になる。この晴れの日に30㌢太の広葉樹2本を切る素晴らしい1日が始まる。朝食前の一仕事だ。

ロープを5㍍高の枝にかけ木の傾斜角度と倒木方向を思案しながら、僕が先陣をきって千曲鋸をひく。倒木方向に受け口をきざみ、切り込んで三角切り口を作る。ひたすら鋸をひく。ゆっくりと、挽き幅を十分取るようにと昇さんのアドバイス。しかし、体が思うように動かない。つるように硬直する腕力が悲しい。微妙な倒木段階にくると昇さんの合図で一気に挽く。おもうような方向に倒れない。木こりトレーニングのように滑車を使い大人数で間伐するようにはいかない。道路に3割がたはみだして一件の落着。

2本目は道路により近いので注意を払う。が、大きな枝が大量に電話線を揺らしドッと倒れる。ままよッと今日の大仕事のケリをつけ、昇さんが用意したドングリの苗木を植え、草花の種をまく。食後には、枯れ木20本余りのうち、残った僕の始末分を地下足袋の歩みも軽やかに平らげた。

帰りしな、青木の森を抜けた見晴らしのいい野原(のっぱら)から八ヶ岳の全景を活写する。ハングライダーのスカイハイがすがすがしい。さて、白州(はくしゅう)の南、尾白川(おじろがわ)の湯桶に向おう。





2010年10月10日日曜日

天山は草原の上にあり




 トンネルを抜けるとアルプ(牧草地)の緑の草原が視界に広がった。バスの後ろを振り向くと西方面には雪山が路肩の崖から遠く山嶺に伸びていた。さらに左に振り向くと、東から南方面は1000㍍高の山嶺に続く草原だ。駆け上がる羊の群れが一つ、二つ。バスの目の前には地響きを立て走る馬の群れ。蛇行しながら真近を駆け抜けバスを歓迎している。馬にまたがるハザクの遊牧民達が高見にたたずみ声を上げバスを待ちうけていた。

 この山嶺の植生は日本アルプスと全く違う。日本の山では針葉樹林帯と高山帯の境になる森林限界にはダケカンバやはい松があり、そこから岩と低木が山頂に続く。天山の高山帯は氷河の名残から森林限界の上はお花畑の草原帯だ。
その違いが相棒のいう「中国に来たかいがあった。これで捕まっても悔いはない」という言葉に表されていた。天山の北面は雨量が多く森林が視界に広がっていると思っていただけに、草原は意外だった。氷河の存在と緯度が高いという点を忘れていたのだ。その素晴らしい景観を見ることができたから、なにかしらつけが回ってくる。つまり、僕たちには今のところ検問に引っかからない幸運があるってことだった。

 羊と馬とアルプスの道を緩やかに下っていくと5㌔程先まで草原が続いた。バスは大草原の真ん中を走り、カルデラの底を走っている感じだ。この周囲は日本に飛来するハクチョウの自然保護地区のサンクチュアリ、バインブルクの湖があるという。(この翌年、家でTVを見ていたらハクチョウが天山から日本に飛来するというニュース性を売りに放映された番組で知ったことだった。だが、この番組で紹介されたバインブルクの湖は官制ムービーのがっかりするものだったから、天山山登りのお粗末なドキュメントと併せると僕らの見た世界は格段に説得力があるといわなければならない。)
 そして、路線バスがわだちがくっきり残る道を行くと緩いカーブの道端に人が立っていた。バスが止まり赤いほっぺのスカーフをかぶった婦人と男の子が乗ってきた。

 僕たちの前の席に二人は座った。その前に座っていたハザクの男性がさげすむように「モンゴル」とひとこと言った。僕は中国に来て初めて人種に関する中国人の感情表現を知った。遊牧民と定住民の貧しさの違い。自給自足社会と市場経済社会の富の違い、山の民とオアシスの民の違いをハザクの男性は日常生活の断面にみせてくれた。

 バスは草原を抜け針葉樹林帯をのぞむ高度まで下がってきた。陽は3時の方角でまだ高いが山影がおおう窪地にバスは乗り入れた。モレーン(氷河による堆積物で盛り上がった場所)の上に土色のレンガ造りの町が迫ってきた。ここがバインブルクのようだ。バスが止まったが窓越しに見える町は山影の中にさみしげだった。僕たちはバスの車掌さんに次の町まで乗っていくと告げた。運転手の若い助手さんは僕たちを乗せた時から外国人とわかっていた様子で、にんまりと了承してくれた。

 針葉樹林帯が山ひだをおおい、草原の中を点から面に広げながら植生の密度を高めていた。水の流れは支流を集めイリ川となって下流のオアシス都市であるイリの町を潤すが、ここでは山岳地帯の小川にすぎない。バスが下るほど夢見がちになる不思議な体験をした。幌馬車隊が川を渡り、牧童がサバイバルのカリキュラム教室に参加した生徒たちに声をかける。山麓の谷戸から谷戸に進む車輪のきしむ音が聞こえる。森林の牧草地の中を巡る幌馬車が勢いを増し、路線バスにとって代わった。バスは白いしぶきをあげる川をあとに緩やかな川沿いをまわり、道沿いの町、チャオ・マー・マーを通過した。









2010年7月31日土曜日

青春18キップ的すすめ 6 飛騨市神岡町 スーパーカミオカンデ探検行は尻むけ覚悟のバテバテ旅 4



宇宙のメッカたれ!

既に日が変わり家までもう少しだというのにハーハー、ゼイゼイ。エコノミー症候群では?と疑ってしまう二日続きの狭く、長時間の高速バスの疲れが溜まってる。風呂に入ると皮が剥けて尻がヒリヒリする。

土曜日の朝8時・新宿発高山行き高速バス。出発そうそう運転手さんが「既に高速道は4時間の渋滞です」とアナウンスした。途中、休憩を早めに取っても大月あたりで10時半。松本で高速道を下り梓川高校の先でクラッシュ現場につかまり1時間の損。「迂回せよ」ではなく「待機」の本部指令がいらだつ。結局、高山に着いたら5分前に神岡行きバスが出てしまい、5時半発の7時着。バスの旅は計10時間半かかった。

 神岡町西里のバス停で下車して直ぐ携帯で営業所に確かめた、日曜日の午後1時24分発高山行きが俄然無視できなくなった。本数が少ないのはわかっていたが12時半前に解散してもらわないと、バスに乗れなくなり、購入済みのチケットが無効になり、東京にはその日のうちに戻れなくなる。強行軍もここまでくるとスケジュール闘争だ。

 しばし安堵で高山発4時半に帰りの高速バスに乗り込む。乗ったとたん「本日も高速道路は4時間以上の渋滞です。キャンセルの方が多くなっています」とバスの運転手さん。案の定、狭い椅子に体をくねらせ、うとうとして目が覚めるたびに回りは車ばかり。山梨の大野原辺りの頃は「まだか!」と思った。既に10時すぎ。

それが八王子の前に来て、運転手さんが新宿の到着は明日の午前12時5分頃の予定という話に渋滞の習慣になれた人はすごいことをいう、と思ったが、実際その時間に終着した。

 強行軍で分刻み行動の旅だったが、ところでその本命の「ニュートリノ探検隊」がそのタイトなスケジュールでありながら円滑な探検ツアーの運営力が売りだったため、それをバスの往復まで延長したのでバテバテ旅になったのだ、と改めて理解した。

 而して宇宙から飛来する素粒子のひとつであるニュートリノは体を通り抜ける幽霊のようなもの、と子供の質問に東北大学の学生講師が語っていたが、よくわからない。宇宙や太陽の起源を知るための施設の探検といっても、えたいの知れない何かなぞを調べているような、裏がある、あってほしい。

 山頂下1千m、片麻岩に囲まれ幽霊をキャッチするコクーンであるスーパーカミオカンデ、カムランドの施設と年間13℃の冷気にささえられ管理するコンピュータ、国際的な研究員達の日々の研鑽には年間億の経費がかかるという。とはいえ、山のメッカの富士山に並ぶ宇宙のメッカのカミオカになるのに10年かかってもそうあってほしい。

2010年6月5日土曜日

青春18キップ的すすめ 5 森の仕事 森の幸 ~諏訪郡富士見町沢入山 2




山は新緑だが林間はひんやり、ひっそりの山懐に早めに着いた。昨年秋の除筏から半年、2-3年後の森の幸を期待して春は球根の植え付け、種まきにかかる。

作業は敷地内の道沿い下あたりを中心にまず、シャベルで点の穴を散らす。イメージは花の大きいハナショウブやあやめ、小粒なしらんでアクセントをつける。森の緑に紫色が映えるイメージだ。球根類を敷きしめ、みょうがやしょうがも植えて最後はコスモスの種が路肩を彩る植栽マップ。義兄の昇さんは「成果が出るまでには時間がかかりますが、手を掛けただけのリターンがあります」といってくれた。

ここまで二時間ほどの軽作業だが時々、ユアサのボンベで暖をとる。昇さんに同行した姉上はあたりを徘徊しながら、道路周辺の見回りと暖かい紅茶にありつくゆったりモード。孫のハルネちゃんの写真をみせて
くれ,来たかいがあったといいたげだった。姉上は医者に10㌔は痩せなさいといわれたそうだから、赤ちゃんの写真を見て健康をかみしめなくては!

2010年5月31日月曜日

電信柱とジグザグ、山に登る




天山山脈は日本の北海道・函館市とほぼ同じ北緯42度以北、幅500㌔以上の山塊の帯全体を総称している。その長さは約2500㌔。日本列島の三分の二を越えるからスケールがでかい。

その天山の山並みに向かう道は、途中まで再びのキジル千佛洞行きだった。今回は乗り合いバスのぬくもりに浸たり、先々の不安も感じない高揚した気分の出立ちになった。でもそれは郊外のヘイズ(黒孜)村までの話であって、路線バスが北東に舵をとるといよいよ荒野、山野にはいるのだ。

赤茶けた岩肌が迫るにしたがい簡易舗装がとぎれ山岳コースに変わった。道も一車線に狭まった。道沿い下の急峻な川幅、川の流れが急激に視界の変化を呼び覚ました。濁流の波頭が路肩を削り、落石が多くなってきた。バスが徐行を始めた。道が一部決壊し、工事が続いている。決壊箇所の現場では漢族の労働者が濁流に負けじと声を掛け合い人力戦を展開している。いずれにしても、この道は国道217号の幹線だが、何が待ち受けているか見当がつかない。

バスは本格的に山道に入った。礫岩が山肌を覆う。路肩は岩崩れがしばらく続く。片側は緑をなくした谷間がえぐっている。先を行くロバ車を追い抜く。擦れ違う荷車にむちを入れているのはハザク人だろう。バスは山懐に入るように蛇行道をゆっくり登る。

天山の高峰・ハンテングリ(標高7010㍍)が西の奥に雪をかぶり聳えているのが見える。谷間の急流を囲むように緑が上に伸びている。天山山脈の山塊に入ったようだ。タクラマカン砂漠の南からの暑い乾いた風をさえぎって視界は緑の風景に一変する。

樹林が南のひと山を被い、道と緑の山の間に湖が広がってきた。別世界の地に踏み込んだような。小龍池だ。道は台地上に移り、湖を望むように牧草地が広がり、パオ(モンゴルのテント状の家)が点在し、牛が放牧されている。これが南山牧場だろう。さらに上るとコバルトブルーの大龍池が小龍池の倍の規模で待ち受けていた。ここでバスは小休止。僕らは急いで食堂で羊肉入りの麺とスープをすすった。

バスは高度をあげ九十九折(つづらおり)が見通せるところに差し掛かった。この間、木製の電信柱が幹線の路肩を等間隔に走り、それこそ天に昇っている。バスがスピードを落とし、エンジン音が車体をゆすぶった。北側の斜面上に日干し煉瓦の家がぽつんと。こんなところにと思う太陽光発電の小さな施設が南に向け建っている。常駐の検問所の宿舎。さっきは入山ゲートを前にした停止だったようだ。ここで臨検があってもままよ、と気にならないから気分はひたすら天山詣でにはまっている。路線バスの九十九折を登る馬力が心強い。

僕と相棒はバスの最後列の左側に座っている。眼下、遠めにジオラマを超えた視界が広がり、ほとんどウイグル、ハザク人が占める乗客の気分が高揚してきたようだ。老人が突然、歌を歌いだした。若夫婦の口げんかが喧しい。小さな子供が外に向けおしっこをしだした。危ないから座れ、とお父さんが大声をかけている。
ハンテングリの雪を被った白山を望みながらうっとりしているうちに峠道のトンネルが迫ってきた。

2010年4月26日月曜日

天山越えは旅疲れを友として




       朝の人通りはまばらだった。クチャの土地の人は宵っ張りなんだろう。それでも、向かいのバスの切符売り場だけはにぎわしく、人がたむろしていた。


 僕は宿の娘さんが汲んでくれたバケツの水をポリポットに移し、顔を洗った。準備万端の相棒が早くも行ってくるよと、切符を買いにそそくさと宿を出た。

 気持ちのいい朝だった。テラスには赤い日々草が咲いている。空は青く天気はいいようだ。キジル千佛洞行きの時お世話になったウイグルのオヤジさんが主人だった郡遊旅社に昨夜から泊まった。斜め向かいの切符売り場の扉が開いているのが見える。北京時間9時の出発時間が迫ってきたので荷造りをしていると、相棒がなぜか戻ってきた。

 「時間だって言うのに、まだ切符を売らないんだ」

 僕たちは今日の目的地を天山の峠を越えたバインブルクにした。モンゴル語のその音の響きにひかれ、バスの発着場があるのではないか、という程度で、距離数と山越えのアクシデントを考え決めていた。

 相棒の様子を見に部屋をでた僕は、外階段を駆け下りようとした。すると相棒があわてて切符売り場の扉を飛び出し、階段を駆け上ってきた。

 「財布をすられた!凄い人だかりで・・足元を探したんだけど無いんだ、こんなこと今までなかった!」

 まったく、昨日のアクスに続きまずいことが重なるものだ。
中国新疆ウイグル自治区の西域北路の要所であるクチャを基点に僕たちは小旅行を重ねていた。タリム盆地の中でもクチャは落ち着いた町で、訪れる者に安堵感をあたえた。タリム川沿いのこのオアシス都市は木々の浅黄色とゴビの土色が調和し、民家の木の扉はラピスラズリの鮮やかな青がまぶしく、町を訪ねる者に明るい印象を与えていた。

 玄奘三蔵の『大唐西域記』にも名を記すクチャは、いにしえの城郭都市・キジ(亀茲)国の面影を旧市街(旧城)に残している。ロバ車にトコトコ揺られ路地を抜ける。視界にはブドウ棚、やせたポプラ、さんざしの木には紫の実、改築中のモスクにウイグルの老婆が佇むセピア色のコンテを眺める緩やかな時間が続いた。それはロバ車の早足とは不釣合いな営みの鼓動だった。

 そのクチャに昨日、アクスから相棒と僕の二人で戻ってきた。西域北路の本道を迂回したバイチャン(拝城)経由の帰還だった。もう一人、中国人のワンはカシュガルに一人出立した。一昨日の夕方、砂嵐の前兆がみえる中、僕たちは一時の別れの宴をアクスビールをのど越しにかみしめながらもった。

 アクスのバスターミナルでの別れが思わぬ天山行き路線バスの発見につながり、相棒と僕は再びクチャから旅立つことになった。二日続きのつまづきが、相棒の旅疲れの顔に出ていたことに僕は納得した。


2010年3月31日水曜日

新疆旅Ⅱ バインブルク草原を越えて 中国天山横断~路線バスの旅


バインブルク草原を越えて
天山(1)~終章(5)


うき がく

 僕はバスターミナルの大看板を眺めていた。クチャへの帰り道を目で追い、タクラマカンの広さにため息をついた。それとは別に同じルートでウルムチに戻る物足りなさも感じていた。新疆の天山(てんざん)南路の要所・アクスは僕達日本人の新疆行の折り返し地点であっても、退路であってほしくなかった。
北にバス路線が延びている。天山を越えて戻れそうだ。南山牧場とは天山にある牧場だろう。そこからなんて読むんだ?相棒がバインブルク(巴音布魯克)と言った。そこから新源、ソ連国境に近いイリ(伊寧)に行ける。おおきく弧を描いてウルムチに向かうコースだ。天山行きが目の前にある。僕と相棒は間違いのないコースと確信した。ところが僕はまずいことをしてしまったことにきづいた。

 僕は昨晩泊まった宿に向かって走った。パスポートをベッドの枕の下に忘れてしまったのだ。バッグひとつを持って昨晩泊まった土塀に囲まれた興隆飯店に着いた。それこそ一走りの距離と時間なのに今朝とは違って観音扉が閉まっていた。扉は鉄の棒が左右に伸び南京錠がガッチリかかっていた。僕は南京錠をいじることも叶わないことから扉を一発ぶちまかしにかかった。観音扉はきしみ、まずいことに鉄の棒がひん曲がってしまった。ままよ、ともう一発。いけねーっ、と思いながらも止まらない。わっせ!わっせ!なんて調子になって力を抜いたぶち負かしを続けてしまった。

 外の物音で宿のおかみさんがきづいてくれればいいが、門の中はシーンとしている。僕はこれではダメだ、と相棒が待つバスターミナルに引き返した。
 相棒と戻ってきたが、僕はなすすべもなかった。相棒は宿のおかみさんが休んでいる家を探しに塀越しに見える隣家の方角に走っていった。10分もするうちにおかみさんが門のうち扉を開き観音扉がゆがんでいるのに気づき大声を挙げた。相棒が僕がわすれたパスポートを持っておばさんと一緒に外に出てきた。
 それからは鉄の棒の修復だ。相棒はその鉄の塊を棒にした鈍い鉄棒の感触を確かめながら石の上に置きその上から石でたたいた。僕は「すみません!」の一声も言えず合間に石の上に置いた鉄棒を靴底で踏みつけた。その繰り返しで不思議と鉄の棒はあめの棒のようにまっすぐに伸びた。

 相棒は観音扉に鉄棒を戻し、直ぐにおかみさんにお金を差し出した。おかみさんは要らないと首を振り「宿に忘れたものは必ず預かっておくのに」と非難した。僕も頭を下げる以外なすすべもなく見守った。

 ターミナルに戻る道すがら言葉をかけることも出来ない僕に中国語がわかる相棒はポツポツと語ってくれた。おかみさんを探すのに二軒ほど声をかけ探したこと。地元とのトラブルで公安警察に通報されなかっただけよかった。あの鉄の棒はといえば、鉄パイプになっていないだけもろく、異物が混ざったなまくら棒だ、と相棒は言った。
 長いムダな時間をかけてしまったことを僕は自分のふがいなさと共に悔いた。天山行は失敗を重ねる旅から始まった。

2010年1月1日金曜日

ノンフィクション冒険譚(2008~2009)






(カラパタール5,545mからエベレストビュー、19760309)
(クチャから新源行き天山越え路線バス、19900615)

うき がく


目次

 1975年の青春
20081026 シルクロードに恋してます    1
20081108 ソ連がソ連であったとき     2
20081115 アイリーン、君に逢いたい!   3
20081124 辺境旅に幸多かれ        4
20090621 イスタンブール 私文書偽造作戦 5 
20090704 アンカラ ヒッピー宿なんか知らない 6
20090726 イスタンブール 安宿の猛者   7
20090806   カルタルの汗と匂い     8                  
20090815 シリア アレッポ 人間HASSANの言葉  9
20090906 シリア パルミラ 指鉄砲殺傷未遂事件    10
20091003 シリア ダマスカス フセインはどこのフセイン? 11
20091011 不可解な国 ヨルダン      12
北アフリカ急ぎ旅
20091025 ルクソール プロペラ機尻びらきの搭乗事情    13
20091101 アレクサンドリア イスラムの教え 14
20091128 リビア チュニジア国境 申告所持金額 虚偽疑いの顛末   15   
20091212 アルジェリア 夜行列車 寝ぼけてサイフをトイレに落とした事件            16 
20091220 アルジェリア 落とした事件Ⅱ アルジェのおちびさん 君はどこにいるの? 17


 新疆旅 キジル千佛洞ピクニック
20081201 キジル(1)~終章(10)    1
20081210 クチャの北には千佛洞あり    2
20081214 無謀な旅はわれらが誉れ     3
20081220 旅力は無言実行         4
20081228 もとよりヒッチハイクは高くつく 5
20090104 党政治学校は悪路を好むのだ   6
20090114 冒険ごっこはこれだからやめられない 7                                 20090202 キジルの落書きは中国を語る   8
20090307 「あなたはどこから来たのですか」9
20090322 さらば、ウイグル 漢族のバス連 10

 青春18きっぷ的すすめ 
20090426 09春  東海道 京都   1
20090517 09春  岡山 鳥取 兵庫      2
20090718 09夏  加茂郡坂祝(さかほぎ) 3      
20091110 09秋  森の仕事 森の幸
諏訪郡富士見町沢入山1  4