2012年5月6日日曜日

バーミアン大仏に逢う


12月28日バーミアン
12月30日カブール


1976年
1月1日 カブール 415㌦
(記憶遥か)
バーミアンの旅はバーミアン止まりで冬場はその先のバンディ・アミール行きのバスがないという話だった。ここも有名な観光地。バクシーシのラッシュに疲れ切っていたので大仏見物は早朝無料見学に切り替え、一日目はバーミアン渓谷を歩き回った。モンゴル人が攻めたというシャリ・ゴル・ゴラの丘。山崖を見ながら小川沿いに歩き、葉の落ちたポプラのような木々の間からみえる東と西の大仏を遠望した。





 翌朝は日の出前に宿を出た。無人の苑内を根雪をふみしめながら小さい東大仏、大きい西大仏の順に見学した。西大仏の左足部は工事のやぐらが組まれていた。中に入り頭上部の壁画を確認しながら階段を上り大仏上部の崖上にたどり着き、日の出を待った。一段落して東に向かい土の階段道を降りて行った。すると一人の銃を持った歩哨が目の前に現れた。早朝のありのままのことを身振り手振りで説明したらあっさり許可してくれた。崖路の途中には人が暮らしていることが、木戸や生活道具の存在で知った。

 バーミアンから帰ってきて、カブールの宿を変えた。同室の自衛隊員だったというバックパッカーの長話に疲れてしまった。富士の演習場でのデモ隊と自衛隊の武闘演習、催眠ガスに逃げまくった話等々、なんでこんなところで日本の話がと、気持ちが塞いでしまった。政治の季節はアジアの政変の方が身近だ。タイのクーデターの話はまだ大丈夫か!アフガニスタンの静かだけど得体のしれないピリピリ感、これは何だ!というヒタヒタとやってくる旅行者を悩ます恐れだ。

 ****
そして2001年3月10日前後に大仏爆破破壊  タリバン・アルカイダ

ついに、文明の十字路へ




12月11日 アフガニスタン

 ヘラート 10㌦両替 158㌦

12月15日

カブール 20㌦両替 

12月16日 340㌦(チェック)を回収 計478ドル

 12月20日クンデュズ

12月21日 マザリシャリフ

12月24日カブール 445㌦

 (記憶遥か)

 アフガニスタンはユーラシア東西交流の「文明の十字路」だという思いがあり、旅行前から憧れの地のひとつだった。ローマのアレクサンドロス大王の東征とそのドラマの主舞台で、ギリシャ人兵士たちの子孫だという伝承の金髪碧眼の人に会いたい、とか三蔵法師が見たというバーミアンの大仏は、その奥にあるバンディ・アミールの神秘の湖は、と見どころ豊富なのだ。とはいえ時は真冬を迎える中、収穫は意外と多かった。


まずは、アルジェリアで落としたチェックの回収分残り340㌦。カブールの銀行に行ったら、内部は大理石のしょうしゃな作りだった。木製の長テーブルのカウンターで待っていたらその後ろの低層ストックのスライド扉が開き、しっかり個別分が間隔をおいて置いてあり、私の分がそこに鎮座していた。その一部始終が客から見えてしまうのが真っ正直で恐れ入ってしまった。銀行マンのようで役人のような担当のおじさんの真面目な仕事ぶりに好感が持てた。


カブールの街は幹線を除くと未舗装が街中でも目立った。泥道を歩いていたら警察らしい大きな建物が塀に囲まれていて大勢の人が行き来していた。正門の前で厚いコートを着た大男が私を見て声をかけてきた。聞けば日本に留学して東大生だったそうだ。私はもっと話が聞きたかったので質問したら日本語がもう理解できない、だめなんだというジェスチャーをした。その温かみのある顔面に口惜しさを残した位の高い警察官はさみしそうだった。アフガニスタンの今を伝えているような哀愁さえ感じた。


カブールの生活は事前情報をイスタンブールで聞いていたので肝炎にはなるまいと念じて現地の人と同じ食事を心がけた。しかし、いつも表通りの串焼き屋で羊の串焼きと緑茶のセットばかりで、慣れに徹したかったが、食事の偏りで体の調子はよくなかった。


旅行者が集まるレストランに行くと日本人の中に登山隊員がいた。この年、1975年の秋にネパール・ヒマラヤ8000嶺の一つであるダウラギリⅣ峰に登頂した今井通子と旦那のカモシカ同人隊の複数登頂者の中の二人の旅行者がシルクロードを西に陸路、旅する途中だった。私は聞き耳をたて話を聞くばかりだったが、2月のヒマラヤトレッキング計画ががぜん現実味を帯びてきた。


旅の行方はガイドブック片手に北へ。クンデュズのホテルは豪族の王様ご用達のような豪華な大部屋。マザリシャリフは冬だというのに陽がさんさんと降り注ぐ大部屋の簡易ベッドにたった一人の滞在。宿から山に向かって延々と歩いた。これが海抜5000㍍超のインド人殺し“ヒンズークシ山脈”の北の登山口になるのかと思うと少しの草しか生えていないゴビの山塊が壁となって立ちはだかった。山麓の荒地を耕すウズベク人の農夫に写真を撮っていいかと構えて聞いたらだめだ、と断られた。