2008年11月24日月曜日

辺境旅に幸多かれ


「お前は何者であるか?」という問いかけは、H・ヘッセの「デミアン」の救いがあっても、いつまでもかみ締め、突破しなけりゃいられないことであった。今も「さあ、これからどうしよう」という態勢で、くもの巣にもがいている気がする。

「なぜ、シルクロードに行くの?」という問いかけが確かに聞こえた20代、「1975年の青春」では冒頭、相対する者とのなにがし、とあるが結するところ「消費生活を送り、生産は一生かかって生み出すものであろう」というこの一点に集約して旅立った。日本に生還し、家庭を持ち、子供が出来、仕事をし、社会の第一線から身を引いて今日に至る。そして・・

「1975年の青春」はその4の今回で中休み。日本~トルコ。次はトルコ~アルジェリアになると思う。中休み中は40代のノンフィクション冒険譚第一弾にスイッチする。

1975年の青春 4
9月3日50ドル換金。

(記憶遥か)
 炭団を敷き詰めたような石畳の坂道をのぼった。煤けた坂の手摺りのレンガに触れる。無骨なトルコ、虚飾の無いトルコ。空は真っ青の快晴だ。坂上から眺める。昨夕着カルス。トルコ2日目の早朝だ。町の広場は長距離バスが主役。きれいに磨いたバスは都会、エリートの匂いがする。
いよいよイスタンブールへ。気持ちが高ぶり、始めて見るバスが新鮮。警笛がトルコからの挨拶と受け止める。とにかく嬉しい。

 バスの中ほど右、窓際に座る。隣席は中年の農夫。帽子をかぶったひげ面の男、僕と同じ背丈。イスタンブールに着くのは4日夜になる。これから2日間一緒の寄寓から、握手を求めた。男は厳しい表情で拒否した。窓の外を指差した。外には送迎の一家族が、1点悲しそうな表情で男を見つめていた。
パキスタンへ出稼ぎ、家族との別れ、涙して声を掛け合っている。トルコの現実、辺境の現実。
「目のうろこが取れる」旅。(2002.1)

9月5日100ドル換金
 イスタンブール4日夜12時着。ヨーロッパ側のバスターミナルから中心街にタクシーで30トルコリラ。ホテル代50トルコリラ。ボラれたとしよう。

9月6日
エジプサシャンバザール、町のじゅうたん屋
テーブルクロス 二枚 80トルコリラ
トルコ石    三個 300
絨緞      二枚 1000

2008年11月15日土曜日

アイリーン、君に会いたい!




夕方から大森7中3年J組の同窓会がある。杉崎先生御存命依頼だから10年以上後無沙汰だった。眞三郎・父が無くなって、京都・大谷廟の骨壷団地で坊さんが「あえて言えば、墓前に兄姉が一緒にいる。順番でよかったのでは・・」と生命あるもののありがたさを語ってくれた。


今日は顔も忘れ、名前も出てこない友の今を知る。「みんな好く集まったね」といえるだけ幸せだ。

では、1975年の青春 その3

(記憶遥か)
ガイドのアイリーンと朝のタシケントツアー。朝からすでに気温は30度を軽く超えている。からっとしている。望んだ気候がこれだった。実感はただ暑い。強烈な暑さがこれから始まる。  
しかも、睡眠不足と時差ぼけでホテルを一歩出たものの、旅行気分がわいてこない。アイリーンに散歩したいとつたえる。しばらく無言で歩いて、コースに乗ることにする。ツアー客にはタクシーが用意してある。

乗ったとたん、どこに行くか,では、朝のバザールへ。新鮮かつ虫食いのリンゴを買う。 三つぶん。もちろん一つは世話になる運転手に。待たせてしまった車に乗りこむ。アイリーンが運転手にリンゴを渡す。運転手は猛烈に怒る。アイリーンも応酬する。
               
観光ツアーも終わりに近づいた。通りを挟んでタクシーが待機している。走っている車の台数は少ない。だが、緩やかな坂道の下り勾配のため坂上から車がスピードをあげて下ってくる。渡るタイミングを計りかねていた。どうしたものか、慣れない異国とはこういうことなのか。アイリーンは感じたのだろう。突然、私の手の平を握って・・つられて私は駆け出した。
アイリーン!君は誰にでもそうするの?そのときの自分はそんなに頼りなげだったの?(2002.1)               

9月2日
トビリシは、中世、近世、そして記憶に残るヨーロッパの名画、映像の姿、形がダブル。赤いレンガに均等なゴシック調の建物。町を歩く人々は色彩館の中を佇む、トルクメンの町、カラフルな色の洪水。ロシア、ソビエトの色ではない。

トルコ第一のイスタンブールに行けば、トビリシ、グルジアがどんな町、国だったかを思い出すだろう。国境を挟んで、グルジア、トビリシは印象的だが大トルコの遠い昔のような感じがする。通過国であるグルジア。
グルジアの青年と石鹸を交換する。物がない、刺激がほしい。資本主義の国の商品はいい香り、滑り感が違う、という一瞬の満足感が楽しい、と。ロシア人は好きではない、グルジアはトルコであるはずだ、と。ソビエト社会主義共和国連邦。共産主義ソ連ではない。

トビリシを蒸気機関の列車発午前5時38分。午後1時ボーダー発、トルコのアクヤカに着く。国境の非武装地帯の寒々とした風景、女性官のチェックは厳しい。残ったソ連幣価は没収。トルコ側は軽くパス。麦わら帽のシルクロードとシルバーロードの落書きに、愛想笑いの係官。
アクヤカは辺境の寒村。列車に乗りこんできた子どもが、金をせびりにせまってきた。ポーランドの男女三人が同じ車両の旅行者と判る。トルコの最奥地の洗礼。午後5時カルス着。1ドル使う。

2008年11月8日土曜日

ソ連がソ連であったとき


今日で法律上60歳になる。人生60年だ。あと30年、・・「どうなるかな・・・?」
それにしても、今年は眞三郎・父が死に、ヒラリー、緒方拳、筑紫哲也と続々だ。おまけに、金融恐慌、オバマ米大統領と盛りだくさん。自分は、どこへ行くんでしょうかね?足元を紐解いていくと続々と冒険譚が見つかった。少しずつ開示し、物の見方、考え方を通し、これからの時間を有効活用したい。

次に一九七五年の青春 その2


(記憶遥か)
船酔いで初日から気分が悪い。薬が効かない。昼間から船室で休むことにする。部屋に入ると、ピーターと吉田の両名が議論している。相当激烈、、雰囲気がおかしい。二人の議論の中味は、机上のメモを見て察しが着いた。文章を輪切りにして異説紛々、いがみ合っている。

「言葉は生き物。切り刻んで料理することはできませんよ、生きていますから」。私の一言で何故か二人の議論は中断。以後、吉田氏は好意的、ピーターはさっぱりしたような、これまでのインテリ発言が影を潜めるようになった。古本屋あがりの書生くさい一言が、どんな効果を発したのか?二段ベットの上で就寝。船も別世界ではない。日本のことも、世界のことも、どこにいても。(2001.10)

8月28日
ナホトカ19時30分着,20時30分発ハバロフスクへ急行寝台車。
8月29日
30ドル換金。ハバロフスク12時30分着

9月1日
機上、日の出前

 ソ連のボリュームに圧倒され、緊張から十分な睡眠が取れない。ナホトカから夕方の列車でハバロフスク。空港で定刻を十二分に待たされ、出発ジェットに向かうリムジンバスから突然一人、旅の友と別れ、別便の待機ジェットでイルクーツク経由タシケントへ。 日本語で叫ぶと答えてくれる、あってほしいものがない。寡黙な時間がスタートした。

 タシケントの朝,ガイドさんのアイリーン20歳。開口一番「ヤマさん」だもんね。日本語が聞けた。アイリーンは翌日、オーストリア人担当。翌日のデート申し込みは、けられた。

そして,ソ連の若者、アレ、イゴ、マレの三人。教育されたコミュニズムの力がどのように生かされるのか、話していて感じられない。なにせ昼間っからウオッカ攻めで酩酊している。ウズベクでキャピタリズムとコミュニズムを語り合うことが、彼らと話すことが彼らに失笑を買うことに成っているとすれば、それは一時の呑み時間のことであって、十分な公園での憩いの時間と言うわけ。

それにしても、中央アジア系のひげづらの初老のこじきが迫ってくるには、驚いた。ソ連にはこじきがいる。三人のなかのアジア系の一人が彼を追い払った。親切そうに追い払ったのではない。いかにも迷惑という風に。追い払った彼はどんな気持ちで・・・ソ連だから・・どう考えたらいいのか結論を求めることではないのだが。

歴史博物館、美術館、デパートを歩く。道で、公園であったアレ、アレキサンダー・スミイロフと再会した。ニコニコと、且つかしこまって近くのアレの一戸建ての家に招待してくれた。彼の弟がいて三人で椅子に座って、おもむろにアルバムを見せてくれた。海軍、赤軍、徴兵か。兵隊の自分たちのことを伝える写真。黒海での演習の写真。記念に写真を撮ろうとしたら、ソ連では外国人を民間人はまねいてはいけないこと。名前も聞かれても答えないようにと、恐縮したように言う。
最後に、彼の時計とカメラを交換しないかと提案してくる。断ると、ソ連の収集切手を記念にくれた。遠来の客をもてなす彼の素直なな気持ちがわかった。
家の門前で別れる。

現在,朝の7時。タシケントからトビリシの機上。低空飛行に入った。朝日を浴び砂漠が眼下に迫る。あと何日か、何ヶ月かの後に、砂漠の上を歩く機会があるだろうか。長い旅になる。気が重くなってくる。
タシケントはオアシス都市、多民族の国。