2012年12月22日土曜日

わたしの世界の七不思議 Ⅱ 再会



1月31日ヴァラナシ

2月3日 ゴンプール車中泊

2月4日バイラマ

 

2月1日

(記憶遥か)

 知ってか知らずか再会ほど不思議なものはない。昨日まで同室だったカナダ人が、いらぬお世話でこちらがえらい目に合っていたのにそれを楽しんでいたかのように「元気だったかい!」などといわれると「君はよく御無事で!」と言い返したくなる。

 その時の私は強烈な煙にまかれ「君はゴールデンウルフに見えるんだけれど!」などと呂律の廻らない会話をした。彼は「さっきまで君の英語はよくわかったけど今はわからないなァ!」などとしらを切ってとぼけていた。彼はわたしに別れのみやげを贈り、わたしをもうろうとさせ、自分の後の楽しみを謀ったに違いなかった。彼は良質な煙をハンターする常習犯だったのだ。

  宿替えの効果を翌日、偶然の再会で楽しんだ彼は、日本では北海道に行った話を懐かしがっていた。日本にもいらぬお世話の旅行者を追いかけ、煙ツワーと称し、多くのヒッピーもどきの外国人を囲い込み、甘い汁を吸う遊び人がいることをわたしは知った。世界のシークレットな旅の仕方は既に日本でもその筋では知られていたのだ。

  ヴァラナシの喧騒は続く。お茶を飲みたくなって茶屋の椅子を探した。外国人同士の相席になった。一方が盛んに話しかけている。見ると英語版のナショナルジオグラフィック誌をさし示している。アフガニスタンの地図の北東部、わたしが行ったクンデュズの先、ワハーンの細い回廊地区について熱弁をふるっているところだった。聞き手の若者は関心のないようにふるまった。すると話し手はあっさり席を立った。
 
 わたしは奇妙な会話に興味をひかれ残った彼に「君はそこに、アフガンに探検に行くのかい!」と尋ねた。すると彼は支配する側の探検は許せないという主張をわたしに真剣になって話した。わたしは本田勝一の論理を聞いているようで感心してしまった。こんなところで支配と被支配の論理が展開される。インドのガンガの川端で死体を焼くヴァラナシで聞く話ではない。でも、五か国語を話すのが当たり前というスイスの若者には許せない話なのだろう。わたしは一層感心して彼と別れ、喧騒のヴァラナシの街を再び歩き始めた。
  その時、わたしはスイス人の彼を見たことがあることに気がついた。

  イタリアのブリンディシに夜行で着いたわたしはユースホステルに泊まることにした。どうみても十代の男どもが廊下をストリーキングしている奇妙な宿だった。夕食のセルフの食堂は日本人を含め若者でいっぱいの人気の宿でもある。トレーの前に並んでいる多くの日本人の中に一人のヨーロッパ系の外国人が盛んに関心したように一人の若い日本人に話しかけていた。するとその日本人が罵声をあびせるようにその外国人にひとこと言うと、周りの日本人がドッと笑い転げた。その遮断され置き去りにされたような外国人がそのスイス人だった。

  罵声を浴びせた日本の若者とは相手が知ってか知らずかパキスタン、タクシラのユースホステルで再会した。タクシラの遺跡を巡りわたしはすっかり暗くなった宿に着いた。わたしは宿の主人に日本人は泊まっているかい、と聞くと一人、まだ帰ってこないと主人は言った。ほどなくして一人の日本の若者が外が真っ暗の中を帰ってきた。わたしは皆が心配していたよ、と彼に言うと彼は一体誰のことだい、といいたげに尊大な態度をとった。

 わたしは彼を見たことがある記憶をたどるように気楽な会話を心がけた。彼はトルコのイスタンブールでは郊外に短期滞在したことを自慢げに話した。実を言えばわたしのイスタン郊外・カルタルの短期滞在はガイドブック通りの初心者コースの滞在だったのだが、彼はそのショートステイが彼のオリジナルのように話すので、わたしもイスタンでは郊外に滞在したよ、というとバツの悪いカオをした。20歳になったばかりの学生にしては老成した旅行者だと知れてしまうことを彼は気にしたようだった。

  ブリンディシのホステルでは三人目の遭遇者がまだいた。食堂の行列に並んでいたわたしに後ろから外国人が声をかけてきた。「君をシリアのパルミラで見たよ。君は食堂の前で自転車のパン売りのオヤジに話しかけていたネ!」なんて!わたしにはその初対面な人の話がウソのように思えた。そのすらっとしたひげもじゃの若者はイギリス人で音楽の先生だそうだ。

 

2012年11月4日日曜日

ボンベイで気がついたこと




121日 ボンベイ

122日 237

126日サトナ

127日カジュラホ

 

1月21
 オーランガバード朝7時すぎ、ボンベイに向かう。3人の旅行者と一緒にコンパートメントを占領する。席が空いていてもインドの列車は寝台席が一番いい。上の寝台に上る男2人。女1人が向いの寝台に座り見回す。これで全員席を確保する。しばらく窮屈に寝て、席が空いてきたので全員下の席に移る。彼らはオーストラリア人で僕が210日にネパールで友達と待ち合わせトレッキングするために体を休めるところはどこがいいかと男に聞いたら「ボンベイは物価が高いからゴアがいい」と教えてくれた。

125
 ボンベイに来て4日目。ボンベイの印象は横断歩道の人の多いこと、多いこと。ニューデリー以来の不可触選民(アンタッチャブル)の多さだ。26日の独立記念日ときてはホテルは満杯でオーストラリア人と相部屋で泊まり二人分が35ルピー。イギリスがインドに残したものは何だ!と考えた。

 インド人の人を見る目は鋭い。外国人をインド人は「アッ、外人がいた」という目で見ている。日本人と同じだな。違いは圧倒的な人、人のすごさ!2階建てのトレーラーバスはフルスピードで走る。雑踏を行き来する人の表情はオーランガバードの田舎と変わらない。だのにボンベイの街はイギリスの影響が強くボンベイはインドの生活力を感じさせる。

  オーストラリア人のロディは神経質で気が抜けないらしい。部屋をちょっと出るときも必ず「ジャー、また」とかいって僕は何も言わない男であって。ロディは煙がお気に入りでいつも目がトロンとしていつも余暇というか非日常が日常の世界にいて、そこから目の前にいる僕に「やあっ!」とあいさつする。彼の旅の形は煙のなかから視界を見ている感じだ。古ぼけた西洋人、文化の香りがしない西洋人。そしてその彼を見ている日本人はなにしにボンベイくんだりに下がってきたのか。これから北へ上がりカジュラホで一休み、なにかしら落ち着くだろう。

 今日は不可触選民に足をとられた。チャーチゲイトターミナルからジュフビーチに行く途中だった。小さな子供が3人。床に彼らははいつくばり、そのなかの女の子が僕の足をすくった。まわりのインド人はなにも言わない。逃げようがない!10パイサのお布施で勘弁してもらった。いやだ、いやだ。

 
明日またはい上がってくるか疲れの重し

 

いつも知っているはずの明日の予定が感じ

 

ない ボンベイ4日 暑い 歩道がわたし

 

の仕事路 なにもがそうだ インドの大き

 

いこと





            


 

2012年10月28日日曜日

ニューデリーで6か月たちました       



110日 ニューデリー         ヴェナス ホテル6ルピー

      シッキム入国の書類を申請。ダージリンで許可書を受け取る段   取り。

 114日 335

117日 アグラ

118日ジャルガオン

119日オーランガバード

 

113

 インド国境で日本人2人にアフガンで会って以来再会した。岐阜の高屋、岩片の両君。早稲田大の友人同士が就職して一年目に、シルクロード行という共通目的から合流したそうだ。かたや社長の理解で見聞を広める旅に出させてくれたという調子のいい話の人と、他方は「そんな理解なぞあるものか」という相棒に対し言外に冷ややかな態度をみせる人。そんなデコボココンビに、僕が加わった。

  ニューデリーの喧騒はここちよい。三人のグループ旅行のような気分になり、久しぶりの観光地巡りのほっとした時間をかみしめることができた。ぎらぎらしたアラブの反動で、インドは過ごしやすい、インドはすすんでいると、自分を合理化しているからだろう。3人でハトバスに乗ってインドの観光バスは「こんなもんだ」と満足してしまう。

  今日の国立博物館では細密画が目を惹いた。スタインが保有していたというローランやホータンなどの中国の文物を見ることができ収穫だ。特にローランの櫛や竹籠、スプーン、シルクの絨毯など西域の文物は感激だった。

  博物館といえばエジプトのカイロ博物館ははるか遠い記憶になり、カブール、ペシャワール、タクシラ、ラホールの博物館をみて仏教の影響が自分の内面に入り込んでしまうような満足した気分がある。仏教芸術、スタインのコレクションはすごい。

  長くアラブの国を回って思うことは、アラブの力強さだ。イスラム教が現実の生活に密着していることにつきる。伝統的な生活というものではなく、生活と切っても切れない宗教の強さだ。モスクで絨毯に膝まづきお祈りする姿を見ていると、強大な中世イスラムの姿を今にイスラムの強さとして見せつけられるような錯覚を感じる。

  では、世界の中のアラブ、イスラムという宗教は、というとよくないというしかない。バクシーシの習俗、軍隊が政治を支配する。旧態依然とした貧しい生活。インドに入ってヒンズー、仏教の影響を感じるようになるとイスラムの空気が薄くなりイスラムはもういい、と感じる。かってながら、だけれど。

 

117

 ニューデリーの数日はよく寝た。毎日寝てばかりだけれど調子は良くない。カレーの辛さに内臓が泣いている感じだ。おなかを下す。トイレに入って壁をよく見ると茶系のあばたが四面を囲む。でも。なぜか臭いを感じない。インドでトイレットペーパーを使わないでトイレを出る方法を試してみた。缶のなかに水を用意して、終わったらおもむろに水を含んだ指をお尻に回す。ヌルッとしてベチョッと触って壁にこすりつける。1回の経験でたくさん。手洗いが大変。

  おなかだけでなく、風邪もひいてしまった。ボンベイへ下るにしても、先のことを考え自重しなければいけない。

 これからアグラを少し見てジャルガオンまでは夜行列車で行く。それから1日休んで仏教の洞窟彫刻のエローラ、アジャンダが2日、オーランガバード1日そしてボンベイ。ボンベイは物価が高いというから引き締めにかからなくては。

 といって、予定通りにいったためしがない。インドの後はネパール、ダージリン、カレンポーを経てシッキムに行く。財布の中身が心配だ。売れるものは売ってとにかく台湾まで持ちこたえたい。

 

 
            
 

 

 

 

2012年8月23日木曜日

ヒュッテ・ツワイザアムカイトの快と怪       蛾 ガ


寝つかれない夜をあきらめ、5時すぎに起き、ロンドンオリンピックの閉会式をテレビにかじりつき見る。派手な閉会式は現代イギリスの文化を長々と紹介するコマーシャリズムの時間帯。役者はスーパーモデルであったり、よく知らない歌手ばかり・・。だが、その歌い手登場の佳境に「クイーン」がなんと出てきた。

 
・・ロックユーがかり・・と、ガラスの玄関扉の上の白壁に蛾が一匹目に飛び込んできた。一時、ブナの木にカブトムシが餌に誘われいるかなァ、と確認のため庭に出る。ソファーに戻り、定位置から白壁をみるとまだ睡眠中のようにして蛾がいる。でたか・・レディオ ガガ・・レディー ガガ。


去年もリビングのつり椅子に座り、うとうと寝ていたらいきなり左足の甲にドサッと大きな蛾が降ってきた。実際、林間の小屋には朝から夜まで出てこなくてもいいのに蛾が居ついている。小屋の持ち主が二代目になっても飽きることなく蛾のご先祖様の力がこの家を支配しているのだ。

 
そのことを緊張感をもって皮膚感覚でわかっているのが子どもたちだ。
小屋が開所して数年後、1981年8月9日から常備していたメンズショップTaka-Qのノベルティー商品を利用した「フリーノート」にその精神的苦痛が描かれていた。

 
1986年8月10日鈴木信行君、梅田真吾君の友人、高2.。1989年8月8日恭子君。いずれも「いい気分で泊まったのになんで蛾がいるの!」「やっぱり蛾はこわい!」と素直な感想。それが卒業が近づきイラつく年齢になると恭子君は「蛾がうじゃうじゃ飛んでくる。なんとかしてくれよーっ」とトラウマをかかえていたような叫び方だ。

 
ついに、子どもの切実な声にこたえない大人に向け刃が向けられ「おじいちゃんはうるさい!おじちゃんはやかましい!」とはけ口をみつけにきた。ところが、これが久しく小屋に来るのがご無沙汰になってくると記憶は深層から湧き出てくるようで、ドッポン便所を思い出し「トイレがこわい!」とついにでた。5年ぶりに来たという麻衣子君の気持ちがまるで真犯人をみつけたようなので納得した。

 

ヒュッテ・ツワイザアムカイトの快と怪      240度の視界


盛夏の野尻湖は神秘さとにぎわいの準備が同居している。砂間館の桟橋から湖を240度俯瞰すると朝6時前の静かさは湖面全体を覆っている。が、芙蓉の花びらに似た野尻湖の四方の岸辺の情景は非対称の図絵を見る。


太陽が斑尾山あたりから昇り、西の湖面を射す。次第にそれが東に移っていく。その時間差はバランスの妙であり、季節感が西の盛夏の水遊び場から東の初冬の朝の絶妙な二面性をみせるから不思議だ。


元の野尻湖ホテルあたりからYWCA、旧藤田観光の飛び込み台あたりを初冬の朝と見間違ってしまうのは、湖の水温が低いためだ。もやがかかり、太陽が昇るにつれようやく夏の憂いをもつグレーの配色に落ち着く。それを消しながら湖畔の夏の朝は深い緑に変わる。

 

 

2012年7月15日日曜日

深い緑のアジア



1月3日 パキスタン ペシャワール(ユース・ホステル4ルピー)

1月5日 タクシラ(ユース・ホステル5ルピー)

1月6日、7日 ラホール 395㌦(370㌦、25㌦)

1月8日 ラホール(ヴェナスホテル6ルピー)

1月9日インド アムリッツアー 375㌦

1月5日
  バーミアンのお土産屋で買い物をした時、あなたは何人か、と問われ「ジャパニ・モンゴロイド」と答えた。その時、日本から持参した切手をバクシーシの手を差しだす子ども達にあげた。それで事は成立する。気持ちが大事であり、いちいちあわてたり、疲れを感じたりすることはない。相手がわかるメッセージでありさえすれば、旅行者だから、といって不安になることはない。
 
 パキスタンからインドに続く田舎の深い緑、緑の大木がここがアジアだ、というメッセージをつたえてくれる。緑を見た時の落ち着きとやすらぎは水をさしだすオアシスに他ならない。西から来た旅行者には、砂漠に慣らされてきた目が洗われる。インダス川を渡り、次の川が車景に現れるとナイル川を思い出すが、もうそれは残像であって、アジアの緑は濃いのだ。
 
(記憶遥か)
  パキスタンからインドに入ると深い緑は土色に慣れた目を癒してくれる。目を洗浄してくれる緑であり、アジアにたどり着いたという農耕の地の緑だ。列車は東に行く。一度も剪定したこともないような大木が次々と表われ、林に変わっていく。

 もやのかかる朝。沿線の人々が走る列車を待ち受けるようにぞろぞろと近づいてくる。いずれも男であり、イスラムの地でみてきたロングワンピースのような布を共にしながらの散歩である。

  一人、二人としゃがみこみ、まっすぐ目線を客車の乗客に注ぎいっぷくするように膝まづく。やがて一人、二人と立ち上がり元いた場所に戻っていく。すると、待っていましたとばかり、同じワンピースのインド人が緑の大木に歩み、しゃがみこむ。その連続した行動様式は絵になる一大イベントでもある。

 だが、人の動きだけに注意を向けてはいけない。人一人が立ち上がった後には朝糞がとぐろを巻いていただろう。それがアジアの最初の風景だった。



2012年6月24日日曜日

青春18キップ的すすめ 8 森の仕事 森の幸 諏訪郡富士見町沢入山 4


去年は台風、暴風雨が重なり青木の森の山仕事は夏・秋ともできなかった。だが、山の幸は確かにあった。

2本のナラ科の大木を伐採したことで陽が斜面に向け深く射し込んだ。その成果だろうか、動物の出入りが目立った。コロコロとしたニホンジカのふんが2か所、3か所。たぬきあるいは狐か、小動物のふんも道づくりのルート中に見つけた。

一昨年、昇さんが敷地の下の傾斜地でニホンジカが体をすりつける湿った窪地のヌタ場と個体を見つけたといっていたが、動物の動きが賑わしいのはなんとなく楽しくなるものだ。

作業の終わりごろ、山仕事関連のシニア作業員が、続々と湧き出るように斜面下から現れた。ざっと10人。入笠山の土地調査の流れで山をぐるっと回ってきたという。

新緑の中、山仕事をする僕たち二人に関心があったようで、こちらも植栽の仕事より動物事情をきいた。

作業員の方は、長野県はこのところニホンジカの被害が甚大で、狩猟者の高齢化と逓減から山・里の農作物被害を憂いていた。山梨の真彦兄の大泉邸近辺でもシカがアベックで飛び跳ねていた、と昇さんがシカの繁殖の広がりを付け加えたが、人との共生を考えると、どこまでが害獣になるのか、線引きができなくなっているようだ。


2012年5月6日日曜日

バーミアン大仏に逢う


12月28日バーミアン
12月30日カブール


1976年
1月1日 カブール 415㌦
(記憶遥か)
バーミアンの旅はバーミアン止まりで冬場はその先のバンディ・アミール行きのバスがないという話だった。ここも有名な観光地。バクシーシのラッシュに疲れ切っていたので大仏見物は早朝無料見学に切り替え、一日目はバーミアン渓谷を歩き回った。モンゴル人が攻めたというシャリ・ゴル・ゴラの丘。山崖を見ながら小川沿いに歩き、葉の落ちたポプラのような木々の間からみえる東と西の大仏を遠望した。





 翌朝は日の出前に宿を出た。無人の苑内を根雪をふみしめながら小さい東大仏、大きい西大仏の順に見学した。西大仏の左足部は工事のやぐらが組まれていた。中に入り頭上部の壁画を確認しながら階段を上り大仏上部の崖上にたどり着き、日の出を待った。一段落して東に向かい土の階段道を降りて行った。すると一人の銃を持った歩哨が目の前に現れた。早朝のありのままのことを身振り手振りで説明したらあっさり許可してくれた。崖路の途中には人が暮らしていることが、木戸や生活道具の存在で知った。

 バーミアンから帰ってきて、カブールの宿を変えた。同室の自衛隊員だったというバックパッカーの長話に疲れてしまった。富士の演習場でのデモ隊と自衛隊の武闘演習、催眠ガスに逃げまくった話等々、なんでこんなところで日本の話がと、気持ちが塞いでしまった。政治の季節はアジアの政変の方が身近だ。タイのクーデターの話はまだ大丈夫か!アフガニスタンの静かだけど得体のしれないピリピリ感、これは何だ!というヒタヒタとやってくる旅行者を悩ます恐れだ。

 ****
そして2001年3月10日前後に大仏爆破破壊  タリバン・アルカイダ

ついに、文明の十字路へ




12月11日 アフガニスタン

 ヘラート 10㌦両替 158㌦

12月15日

カブール 20㌦両替 

12月16日 340㌦(チェック)を回収 計478ドル

 12月20日クンデュズ

12月21日 マザリシャリフ

12月24日カブール 445㌦

 (記憶遥か)

 アフガニスタンはユーラシア東西交流の「文明の十字路」だという思いがあり、旅行前から憧れの地のひとつだった。ローマのアレクサンドロス大王の東征とそのドラマの主舞台で、ギリシャ人兵士たちの子孫だという伝承の金髪碧眼の人に会いたい、とか三蔵法師が見たというバーミアンの大仏は、その奥にあるバンディ・アミールの神秘の湖は、と見どころ豊富なのだ。とはいえ時は真冬を迎える中、収穫は意外と多かった。


まずは、アルジェリアで落としたチェックの回収分残り340㌦。カブールの銀行に行ったら、内部は大理石のしょうしゃな作りだった。木製の長テーブルのカウンターで待っていたらその後ろの低層ストックのスライド扉が開き、しっかり個別分が間隔をおいて置いてあり、私の分がそこに鎮座していた。その一部始終が客から見えてしまうのが真っ正直で恐れ入ってしまった。銀行マンのようで役人のような担当のおじさんの真面目な仕事ぶりに好感が持てた。


カブールの街は幹線を除くと未舗装が街中でも目立った。泥道を歩いていたら警察らしい大きな建物が塀に囲まれていて大勢の人が行き来していた。正門の前で厚いコートを着た大男が私を見て声をかけてきた。聞けば日本に留学して東大生だったそうだ。私はもっと話が聞きたかったので質問したら日本語がもう理解できない、だめなんだというジェスチャーをした。その温かみのある顔面に口惜しさを残した位の高い警察官はさみしそうだった。アフガニスタンの今を伝えているような哀愁さえ感じた。


カブールの生活は事前情報をイスタンブールで聞いていたので肝炎にはなるまいと念じて現地の人と同じ食事を心がけた。しかし、いつも表通りの串焼き屋で羊の串焼きと緑茶のセットばかりで、慣れに徹したかったが、食事の偏りで体の調子はよくなかった。


旅行者が集まるレストランに行くと日本人の中に登山隊員がいた。この年、1975年の秋にネパール・ヒマラヤ8000嶺の一つであるダウラギリⅣ峰に登頂した今井通子と旦那のカモシカ同人隊の複数登頂者の中の二人の旅行者がシルクロードを西に陸路、旅する途中だった。私は聞き耳をたて話を聞くばかりだったが、2月のヒマラヤトレッキング計画ががぜん現実味を帯びてきた。


旅の行方はガイドブック片手に北へ。クンデュズのホテルは豪族の王様ご用達のような豪華な大部屋。マザリシャリフは冬だというのに陽がさんさんと降り注ぐ大部屋の簡易ベッドにたった一人の滞在。宿から山に向かって延々と歩いた。これが海抜5000㍍超のインド人殺し“ヒンズークシ山脈”の北の登山口になるのかと思うと少しの草しか生えていないゴビの山塊が壁となって立ちはだかった。山麓の荒地を耕すウズベク人の農夫に写真を撮っていいかと構えて聞いたらだめだ、と断られた。


2012年3月6日火曜日

見せしめのシルクロード


1210日 メシェッド - アフガニスタン国境


(記憶遥か)

 宿のオヤジが外からいきなり部屋のドアを蹴りあげた。観音開きのドアはふるえ、抑えの軽量バックが吹っ飛んだ。部屋にいた僕ら日本人以上に新参の一人のヨーロッパ系のツーリストが震え上がった。

  旅行者風を装ったその若い外人を二段ベットに座りながら、あるいはうつぶせになりながら戦々恐々とみつめる僕ら日本人の素人の目を彼は意識していた。さも、中毒患者であることを誇示するように、彼は部屋に入ってくるなり注射針を取り出し、左腕をゴムチューブで絞った。その手慣れたしぐさを常習だとすでにオヤジは察知していたのだろう。西部劇のようなその劇的なアクションを彼にあびせたのだ。「出ていけ!」。

  その外人はげっそりと頬のこけた怪人と化し、悪態をオヤジにあびせるでもなく、親愛なるイスタンブール・ステューデントホテルをおとなしくあとにした。部屋を占領していた日本人同士で、勝ちどきをあげた。出てくる言葉はテストの答えを充てたように奇妙に一致した。「コカインだ」。

  シルクロードは別名「(麻薬)ルート」であった。日本人の若者に見せすぎのコカイン中毒患者のふるまいとその記憶はゆるがない。そして、ここイラン-アフガニスタン国境では罰が下されていた。日本人の同世代だろうか、バックパッカーの見せしめの展示品と彼の牢屋入りのメッセージはいただけない。

  日本人の某氏はバックパックのアルミのパイプに大麻を忍ばせ捕まった。その見せしめを見せつけられるツーリストは自衛せざるを得ない。

  イランから先はとにかく危ない。これがツーリスト同士の合言葉だった。バスに乗ると大きなバックは屋根に挙げられてしまい、手元を離れたバックに何が起きるかわからない。バックが切られ、物が無くなる。嫌疑の品がまぎれこんでいようものなら一巻の終わりだ。バスの上の荷物には責任がもてない危険地帯に来たのだった。

  イスタンブールでそのあぶない話を聞き、とりあえずバックをチェーンで巻き、錠前をかけるイメージに決めた。そこでエジプシャンバザールに一式を買いに行くことにした。チェーンと鍵をそれらしき店で買い、私はチェーンを二重巻のマフラーのようにして首からしたたらせ、バザールを買い物客然としてプラプラと歩いた。

  すると、煌々と灯りのついた土産物屋のあちらこちらから、若い店員たちが大道の見世物をみつけたように、次々と私に声をかけてきた。発想ゆたかな店員がトルコリラを出してきて、私のチェーンをいくらなら売ってくれるのかという冗談ともつかない寸劇を始めた。私はそれに便乗して、有難いことに買値の倍で彼にチェーンを売ってしまった。

  バザールを木製サンダルをつっかけ、奇妙な風体で歩いていた私を、まるでプロレスラーの怪人ヒール(悪役)に会ったと勘違いしたのだろう。その渋いシルバーメタリックのチェーンを巻いた姿は目立ちすぎた。


2012年2月26日日曜日

栄華をどうして伝えようぞ!


125日イスファハン 

ホテル・アネックス120イランリアル

128日バス車中泊168

129日メシェッド



(記憶遥か)

 イスファハンはイランの真珠、というガイドブックに魅かれやってきたがパッとしない。「王の広場」と呼ばれているイマーム広場の南側に立つイマームモスクはなるほど細密な絨毯模様が連想されて美しい。
 
 そして、王の広場はなぜか入れなかった。入る気がしなくなった、というのが正確でレンガの壁ごしに見える広場には雑然と積み重ねた椅子が山積みの状態だった。何か行事の後の後始末をしていない。ほったらかしの状態だった。ぐるっと広場の外側を歩きながら眺めた広場はとても観光地とも思えない。悪く言えば美しいというものを裏側から見る、醜悪な感じだった。観光地に対する見分より観光ずれが勝ってきた。観光地を歩くのが疲れてきたのだ。

 これに対し、アーケイドから光がさす広場近くのゲイサリエ・バザールは圧巻だった。トルコ・イスタンブールのエジプシャンバザールような世界の観光客目当てのきらびやかさはなく国内向けだ。ここでは敷布二枚を買った。そして早めにホテルに戻り封筒型敷布づくりの裁縫仕事にかかった。


2012年1月1日日曜日

ノンフィクション冒険譚(2008、2009,2010、2011)


ノンフィクション冒険譚(20082009, 20102011











                                        

(19751212  アフガニスタン ヘラートからカンダハル )
(19760324  シッキム・ガントック)         

                                                                                         
                うき がく

 目次



1975年の青春


20081026 シルクロードに恋してます  1
20081108 ソ連がソ連であったとき  2
20081115 アイリーン、君に逢いたい   3

20081124 辺境旅に幸多かれ       4



20090621 イスタンブール 私文書偽造作戦   5

20090704 アンカラ ヒッピー宿なんか知らない   6
20090806 イスタンブール 安宿の猛者       7



200908      カルタルの汗と匂い           8

20090815 シリア アレッポ 人間HASSANの言葉  9

20090906 シリア パルミラ 指鉄砲殺傷未遂事件 10



20091003  シリア ダマスカス フセインはどこのフセイン?  11
20091011  不可解な国 ヨルダン     12  

   
        北アフリカ急ぎ旅
20091025
 ルクソール プロペラ機尻びらきの搭乗事情   13

200911
アレクサンドリア イスラムの教え   14

20091128
 リビア チュニジア国境 申告所持金 虚偽疑いの顛末   15

20091212
 アルジェリア 夜行列車 寝ぼけてサイフをトイレに落とした事件   16

20091220
 アルジェリア 落とした事件 アルジェのおちびさん 君はどこにいるの? 17

20101226
 それがローマだ   18

20110114
 アテネはしんしんと雪の中  19
20110226 デモと共にカランコロン  20

20110226 他人(ひと)のふんどし 21
20110305 ヒッチハイクロードの出会い  22
20110325 パンと牛乳と白チーズ  23
20110403 アナトリア高原の一宿一飯  24
20110605 錆びたナイフをふりかざすクルドのハイジちゃん  25
20110723 公安とマオイストとツーリスト  26
20110820 わたしの世界の七不思議 1  27
20111209 放浪者 ペルシャにて  28

 

新疆旅 キジル千仏佛洞ピクニック


20081201 キジル(1)~終章(10)   1
20081210 クチャの北には千佛洞があり 2  
20081214
 無謀な旅はわれらが誉れ   3
20081220
 旅力は無言実行        4
20081228
 もとよりヒッチハイクは高くつく   5
20090104
 党政治学校は悪路を好むのだ   6
20090114
 冒険ごっこはこれだからやめられない   7
20090202
 キジルの落書きは中国を語る     8
20090307
 「あなたはどこから来たのですか」  9
20090322
 さらば、ウイグル 漢族のバス連  10


新疆旅 バインブルク草原を越えて

                                             中国 天山横断~路線バスの旅

20100331
 バインブルク草原を越えて 天山(1)~終章(5
20100426
 天山越えは旅疲れを友として      2
20100531
 電信柱とジグザグ山に登る     3
20101010
 天山は草原の上にあり     4
20101130
 馬乳酒はもてなしの心     5



青春18キップ的 すすめ

20090426 09春 東海道 京都   1
20090517 09春 岡山 鳥取 兵庫   2

20090718
 09夏 加茂郡坂祝(さかほぎ)   3

20091110
 09秋  森の仕事 森の幸            諏訪郡富士見町沢入山 1   4

20100605
 10春        〃       2   5

20100731
 10夏 スーパーカミオカンデ探検行は尻むけ覚悟のバテバテ旅            
            飛騨市神岡町           6

2010110
10秋  森の仕事 森の幸    諏訪郡富士見町沢入山 3   7

20110910
 ヒュッテ・ツワイザアムカイトの快と怪  1  8
                          前章 さし向いのさみしさ