2009年7月26日日曜日

イスタンブール 安宿の猛者(もさ)




(記憶遥か)

宿の大部屋を占領するベッドは金属パイプの野戦病院用ベッドと相場が決まっていた。この二段ベッドに日がな寝て暮らすのが貧乏旅行者の常だった。どこかへ出かけては寝、物を書き、本を読み、思案するのも自分の家、このいたについたベットだった。特に長期旅行者はベットにいる時間が長くなる。大休止したくなる。

イスタンに来てまず気がつくのは、旅行者の分類が容易ということだ。旧市街のスルタンアフメッドに大型バスで乗り込んでくる日本人は高級クラス。バックパックスタイルでも容姿がリゾート服で闊歩する若者は、ガイドブックにのっているホテル、宿に泊まる。イスタンに来た早々の私が通った道だった。そして、クチコミ情報で意気投合する旅の友の安宿が住み心地のいい私の住処。アヤソフィア・ジャーミィ近く、南の鉄道下のくぐり道の先に海があった。

「この本すごいね!」。日本語に飢えているためか感動ひとしお。4年間世界中を旅行して、ここイスタンで大休止を宣言した友に私が貸したのは、文庫本の「鴉の死」(金石範)だった。この本はぜひ読んだほうがいい、とあわただしい出発時に中国関連の城戸君が薦めてくれた本だった。 しかし、私には数少ない持参の本の中でもこの本はさっぱり頭に入らなかった。なぜか気もそぞろの中で読むような読後感のない昼寝時間の本だった。

城戸君には申し訳ないと思いつつ彼の声に私はあえて「うん!」と答えてしまった。韓国・済州島を舞台にした「鴉の死」は重かった。この作品で言う乗り越えなくてはならない屍を、私も乗り越えていかなくてはいけない何かを、感じることができないでいた。
    
それに比べ、四年間の長旅から語られる友の話はすごかった。アフリカでは一ヶ月のサハラ砂漠縦断にはズタ袋いっぱいのオレンジを救いの水として携え、乗り越えた。南米チリの政変、73年のアジェンダ大統領が反革命により殺された時は外国人が一斉に取締りの包囲網にあった。友は国境の有刺鉄線をほふく前進して隣国に逃げ延びたという。彼は読むべき作品を手にし、読むに相応しい友に手渡ししてくれると私は思った。

オートバイに乗った学生がイスタンに四ヶ月かかってようやくたどり着き安宿で武勇伝を語ってくれた。彼は船でインド・カルカッタに上陸し勇んで自前のオートバイを蹴っていざ、シルクロードを西に大陸横断に出発した。出発して40㌔ほどしてチェーンが切れた。炎天下を重いオートバイを引きずりカルカッタに引き返した。うれしかったのは査証の発行に時間がかかるイラクにあえて行った時だった。バグダッドに着いたときは町の人々が大挙押し寄せ歓待してくれたことが忘れられない、という。彼と最後に交わした話は痛烈だった。イスタンは住みよいなぁ、という私の言葉に間髪を要れず彼は反論した。「イスタンは大嫌いだ!昨日のうちにバイクがバラバラにされ盗まれた」。彼はすがるように安宿の友を見返した。次の日彼はイギリスに飛んだ。

 旅の日本人の噂話は尽きなかった。モロッコで外国人相手に商売している日本の女の子の話に沸いた。旅の友は皆、すごい!激励しに行こうと生きるための力に感服した。私はそこから思った。地中海を一周してスペインに行ってイスラムをもっと知ろう。あわよくばアルジェリアに赴任している従兄の足立のタカシちゃんに会いに行こう。イギリス長期滞在を見越して計画を練った。 (200907)

 

青春18キップ的すすめ 3 加茂郡坂祝(さかほぎ)にて







炎症にはきつい酒だった。やはり夜中と明け方に目が覚めた。梅雨明け前の昨日のムッとした湿気を忘れる冷気と青々とした稲の生命力のある匂いを思い出す床の中、夜中に出入りする気配もない田園の農家に一泊。戸締りの鍵はやはり必要がないのだ。

 八畳敷きが奥に延びた玄関の上がり間にのびのびと一人で寝る。四方の間は北にソファーとテレビの憩いの間があり左回りで荷物が雑然とあるが仏間だろう。その隣は夏蒲団が控えめにおいてあり、襖が開けっ放しで風が入り本来涼しく、音が響かない。玄関隣接のばあ様の部屋からはコトと音がしない。縁側は久しく見ない一間はあろう板間が堂々と伸び、千葉・多古の小池のお兄さんの家を思い出した。

 農家は平屋の佇まいだが、かっては蚕棚が二階に広がって、にぎわしくお蚕様のお通りで本家の財政を潤したという。

 7時、虫と鳥の音に誘われ玄関を出る。雲がたなびいている。農機具小屋の軒下に玉ねぎがぶら下がっている。トイレはここに二つ。離れ屋を含めて四、五箇所。自家用車等が計四台の豊かな兼業の暮らしぶりだろうか。藪を刈り込み種をまいた40坪ほどの畑にはスイカやうりがなっている。畑を見守るように小さなストゥッパ(仏塔)を抱えた道祖神らしき姿が鎮座。
 戻りかけて愛嬌のある純粋柴犬がしっぽをふって待っていた。あっち、こっちに犬の糞。鎖につながれても飼い犬らしくないでしょうと鼻を摺り寄せる猟犬・柴犬の普段の勇姿をみる。さて、朝の水田を散歩がてら見に行こう。
・・そうでした。離れ家にはご主人の若井さん一家がいるんです。

2009年7月4日土曜日

アンカラ  ヒッピー宿なんて知らない




9月8日
ボスポラスの船旅・・今日は無理だ。明日に廻すとしよう。イスタンブールに来てよく歩く。捻挫を気にせず歩く。することはひたすら歩くこと。今日もブルーモスクに行く。必ず行きたくなるところがあることはいい日常だ。何よりも怠惰な気分が広がらないことがいい。明日を考える楽しみ。どこへ行こうかなア、なんて日本での生活よりいいのではないかと思う。

(記憶遥か)
 トルコの首都、アルタリア高原のアンカラに行った。初の小旅行はイスタンでの情報収集で貧乏旅行者の間で関心の高いイスラエルとアラブの抗争が現場でどうなっているか、これを大使館がどこまで把握しているか、行くにあたってどんなアドバイスをもらえるかに関心があったためだ。その期待値は0%と踏んでの大使館訪問だった。

 と、いうのもアラブにおける日本大使館の親切度を相部屋の日本人旅行者と話しているとき、あまりに大使館員が邪険にするのでパスポートをかざして、かれは読み上げたという。
日本国外務大臣告「日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。」

 その行動で相手の態度ががらっと変わった。彼は溜飲を下げたそうだ。ためしにひとつ自分もやってみよう、ということにした。友人である外務省図書館の鈴木女史にお土産話の一つでも、という気楽な気持もあった。

 アンカラの大使館員は30歳近く。「よく来ました」というにこやかな話から始まって、これから自分はとりあえず南下してシリア、というところにくると、宿はどこ?と問われて大部屋の外国旅行者が出入りする安宿というと,係官はつい最近イズミールに行ってきた話しから始まって「ヒッピー宿か!やめたほうがいいよ!」という。席をはずしたら、後輩と思しき少し若い係官に交代した。落ち着きのない大使館の対応を感じた。「渡航禁止ではないですが・・」とくるとなにをか言わん。

 まず、安宿に泊まるのを侮蔑し人を敬遠して、保護扶助のモラルも忘れ・・収穫はそんなところだった。 (2009.07)