2015年5月31日日曜日

青春18キップ的すすめ  山梨県河口湖Ⅱ 空からみる富士





空からみる富士

 

空の蒼に浮かぶ綿くずがちぎれていく。その数三つ、四つ。富士の嶺の高層にその綿くずのばらけた雲が面と広がり、なにかしら赤富士の雲を想気させる。山を周囲から見わたす鳥瞰の図がふさわしい.

六時ごろになるとトビが飛んでいるような口ばしをのばしたトビ雲が二つ、三つ。折しも鳶が円をまいて湖畔の上を滑空する姿が重なる。今日の快晴富士は格別だということがわかる。

こういう時に老いた人を見守る八つの目はおだやかだ。「本当に今日、来てよかった!」といえる四人の意志が老いた人にストレートにつたわるから。その窓越しの富士にありがたく合掌する。

この秋、来年の今頃またと、声をかけたくなる河口湖の富士。逆さ富士、ガラスの富士を見上げる贅沢がある。

2015年5月6日水曜日

京都路傍観察  疲れた足に最古、最大級


 
疲れた足に最古、最大級
 
 
 
 
 
 
 
 


上 ホームの段差はどのような理由でJRが上、京阪が下になったのだろう

 
中 絶対ならぬ「絶体」告知はお知らせ以上の警告

 
      下 定番文字が複雑に重なりあった世代を超えたアナーキーな落書き


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  京都駅からJR奈良線に乗り、一つ目の東福寺駅で京阪線の東福寺駅に乗り換えた。京阪のホームで列車を待っていたらJRのプラットホームと重なっているのに気づいた。事前に二、三の観光地図で確かめたら駅と駅の間は離れていて乗り換えるには、またいくらか歩かなければいけないと思っていた。しかもホームはただくっついているのではない。JR側のホームが上、京阪側は下になってひな壇状の段差があるからなぜ?と思えてきた。

 街を観察しようとする僕の気分はこのホームから意識してきた。たぶんそれは、疲れてくると一度笑うと笑いが止まらなくなる若い時代のクセがこんな形でよみがえったのかも知れない。

 

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  京都滞在の三日目は歩きすぎないで見るものを見てしまおうとした。が、疲れてくるとそうはいかない。京都市の裏鬼門にあたる八幡市の男山、石清水八幡宮(やわたのはちまんさん)は行くコースを間違えていた。極彩色の山頂の社殿詣りの後が山下りでしかも山麓、参道の荒れ果てた姿を体感したため予想以上に足が重くなってしまった。

そんないやな気分も沿線の京都競馬のにぎわいで現実に引き寄せられた。途中駅では乗り換えた列車が入線時に真ん中のドアが閉まったままだったのに気づいた。「ラッシュアワーの時だけ開きます」と書いてあるそのドアの前の車内の椅子にはおしゃべり好きな「大阪のおばちゃん」がいたからたまらない。

解放された気分から僕はつれあいにいつからくるぶしがいたくなったのかを訊いた。つれあいは歩き始めてからというので何で?ともう一度訊くと、以前、十歳以上年が離れていた女友達との会話で60才を前にその友達がくるぶしが痛くなったという話をした。悲しい話だ。そういう僕も体重がなかなか減らない。どうしたものか。

 
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下車して東福寺まで350㍍、という案内板を見てがっかりした。ようやく北門に着いたら月極駐車場だから自転車、バイクを止めてくれるな!という古くなった表札が立っていた。止めてくれるな!というのは間違っているよ!と赤くバッテンされた「(絶体)」が念押しされて可哀そう。担当のお坊さんも上からなんとかせぃ!とお叱りをうけ腹を据えてかかったのだろう、けれど。

中門から伏見街道方面に出る。東福寺も大伽藍の最古、最大をうたっているが、外の世界にお金をかけることまで回らないようだった。参道の脇に立つ外塀の崩れた土壁に落書きが。これぞ昭和の落書き、文化財にしてほしいぐらいのたわいもない日常が公開されていたのだ。

 

2015年5月3日日曜日

京都路傍観察 ひじき好きですか

 


上 ひじき煮はひじき、油揚げと人参。わび、さびです
 
下 南禅寺横のインクライン(傾斜鉄道)の右・カメ釘、左・犬釘のレール止めはこれぞ「ブラタモリ」ゆずりの鉄路観察。




                     ひじき好きですか!

 

4

この時期、京都は文化財の特別公開でにぎわっていた。まずは今出川通りの東西ラインに注目。足利系の息がかかった名跡である同志社大学奥の相国寺は一番乗りだった。案内のお坊さんの話では相国寺は「しょうこくじ」であり「そうこくじ」とは言わない。助ける意味の相は首相を連想させる。首長は戦争をして民を滅ぼすのではなく民を助ける人をいう。法堂の蟠龍図を見る。その天井図の鳴き龍の開眼が、こちらが四方を巡るのを楽しそうに追跡してくる。龍は民を助ける。その錯覚を利用した狩野派の画法は見事というほかない。

5

市バスを降り銀閣寺通りに入って早めに昼食をとることにした。のれんに惹かれた店は飾らない昭和の定食屋さんだった。店内の前面に献立料理がはいった今どき珍しいガラス棚が鎮座していて、観光客風は僕ら二人だけだった。品書きのうどん、そば各380円は安すぎ。トリの南蛮定食を注文したら6品のなかにひじきのうつわがでてきた。ひじきは僕の大好物だが今朝のひじき煮と味比べをした。冷たく味が薄い具が二種のひじき煮に比べこちらは温かく甘みがあり三種入っていてうまい。僕のひじき煮は甘くしすぎて6種は入っているが、これでは老人の太り自慢の煮物になってしまう。そんな料理のイロハを教えてくれた「定食の大銀」だった。

 
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京都のわび、さびを代表する銀閣寺はやはり足利以降も東山文化の華だった。特別展は本物の襖絵三品。江戸の与謝蕪村、池大雅、近代・奥田元宋の作品だ。倉庫からカラッとしたこの季節、俗世界にお出ましの信じられない出来栄え。「こんなに鮮やかな線」「陰影が褪せていない」。僕は膝を立て柱につかまり目をこらして見ていたら、二人目の案内おばさんが後ろからヒョイと現れて、オッと柱も文化財なんですよ、と僕をにらみつけた。

「哲学の道」は銀閣寺を起点に疎水を巡る。足と膝が痛くなってきたが、つれあいが盛んにこの道を歩きたがったのはなぜだろうと考えたら、それが哲学の道なのだよ。

 

2015年5月1日金曜日

 京都路傍観察  予兆はエンストからあった





 

上 かつては葬送の地だった清水。発祥の音羽の瀧まで人、人

下 鴨川沿い、準備中の料理屋はもう夏の風情だ




                           予兆はエンストからあった

 1

市バスはラッシュ時のように大勢の乗客を乗せ、京都駅から206系統を走り出した。発車したとたん、僕はつれあいに頼んで「運転手さんに聞いてくれる?」と下車する停留場を確かめてもらった。返ってきた答えは「よくわからない」だった。

午後二時まえの暑さから、重い荷物を背負ったお上りにとってとにかく早く五条坂に着きたかった。ところが、博物館三十三間堂前を過ぎたT字路の信号前でその運転手さんが突然下車した。エンジンを止めていたけれど何か変だなァと、思うも間もなく座りしな「このバスはここで止まります」とエンストになったことを運転手さんは乗客に告げた。

あまりにいきなりのことで乗客の声はため息交じり。下車した僕は先頭をきって次の停留場に向け速足で歩き出した。幸い車内アナウンスで下車先が近いのがわかっていた。しかし、これが歩き疲れの旅のはじまりになるなんて。

 

 2

清水の舞台で携帯が鳴った。長兄、嫁さんからの立て続けの折り返しは「何か?」という程度のものだったが、大谷本廟の墓参りが順調でなかったことを、自分でも呆れたように知らせた。なにせ7年ぶりの墓参りは墓地の番号しか知らない。現場は広い。その団地群は堂でも二つある。受付に戻って地図に書いてもらったが木造りの墓の開け方がうまくいかない。つれあいに応援を頼んだりわからずの時間を無駄にしてようやく合掌だ。

そして清水寺の舞台からはるか「音羽の瀧」をのぞみ、巨鯨のように人々を吸い寄せ飲みつくすような清水寺をあとに高台寺に向かった。

こんどはガイドブックを片手に坂を巡るように進む。清水寺から二年坂に下がって足裏に力を入れる。ここで転ぶと二年以内にそれこそこけるそうだ。そんな気配をよそにつれあいの足音が聞こえない。速足で知れた人がなぜか遥か後ろにいる。「くるぶしが痛い」という。僕は珍しい話だなァと高をくくった。

 


その日の夜は京の台所、盛り場の錦市場、新京極を市バスの助けをかりてひやかしにかかった。だが、こちらも以前とは時間帯も時期も違ったのでピンとこない。しかたがないので烏丸のホテルまで引き返すようにまた、歩いた。そして、夜食。自然食が売りの店に入り大いに食って飲んだ。旅のエンジンがようやくかかった感じだ。一時間余もして店を出てつれあいを待ったが時間がかかる。「どうしたの?」と聞くと、カードの決済で暗証番号を打とうとしたら少し待ってと、店の京美人が「この機械遅いんですわ!」とケラケラわらった、そうだ。カードは京には似合わないような、そんな気分で通りを歩きだしたら日本酒がきいてきた。

 突然、その道端の細い縁に靴をあずけていた躰が宙に浮いた。あわてて首にぶら下げていた中型カメラを守ろうとして、手で押さえたがレンズが衝撃ではずれ、自分も通りのコンクリートに叩きつけられた。ひざと手の痛み、これは何だという間の無残。