2008年12月28日日曜日

もとより、ヒッチハイクは高くつく


 千佛洞まではヘイズ村から10㌔先、ムザルト川の渓谷が迫ってくる頃広い歩道に分厚いブロックを敷きつめた町に入った。鉄と石で固めた街並みを通過しバスは小休止の場を探した。街の入り口にゲートが架かった開拓地の工事現場の町にやってきた。

 その町を経由した断崖下には、川を遮断しているコア(核)に地元の岩資源を活用し、厚い粘土土壌で固めたロックフィルダム工法のダムが6分程度出来上がっていた。バスはそのダムの工事現場のど真ん中に乗り入れた。

 表面を土で固めた五十㍍幅の分厚いダムの上で、勢い盛んな連中が工事現場の人から説明を受け、見学コースに乗った。僕はこの際とばかり一人ダムの上を歩き回る。ダムのスケールは気分を沸き立たせ僕は小走りに動き回った。

 この観光地の無料見学の便乗は、三人で共有するずうずうしさが気持ちを楽にした。相棒が寄って来た。
 (笑いそうな顔で)「彼らは、どういう連中だと思う?」僕は「路線バスの他人同士じゃないよね!」(相棒に耳を寄せた)
 「共産党の政治思想を教える学校だって、バイチャン(排城)にある」。 

2008年12月20日土曜日

旅力は無言実行




 車の北側の風景は、クチャからヘイズ村までの過酷な自然とは全く違っていた。道路に沿って北から西に延びる厚い緑の帯が、村の存在感を伝えてくれる。ポプラの緑が外壁のように続き、かすんだ山並みのグレーを圧っしている。

 こうして彼らの分厚い人の塊と土ぼこりとひつじの肉が混ざった独特のにおいをかいで、しかも中国の漢族支配の世界から離れたウイグルの世界に足を踏み入れていると、北京での空想がはるか向こうにかき消されてしまう。

 僕たちは、89年6月4日の天安門事件から一周年目のその4日に警備が物々しい北京を後に列車で西に向かった。その間の西域情報は、まったくといっていいほどつかめず特に開放都市の開放の真偽がわからなかった。外国人の旅行制限の難度を旅の強行軍からつかめないまま、新疆ウイグル自治区に来てしまった。北京からウルムチ間の車中で収集した情報は、チームのフォロワー的存在である僕には、遮断された会話の中では、相棒経由のそれも滞りがちだった。

 確かに、ウルムチからクチャまでのバス・チケットは買えた。日本語の中国旅行ガイドブックには丸印の都市は解放、準解放都市とある。少なくともその都市と都市の間を行き来すれば安心コースに乗れる。少なくとも地図上でのチェックは間違いなかった。
だが、狭い路地に迷い込んでしまったようだ。開放都市・クチャに来ても全神経が心の余裕を拒否している。神経はぴりぴりとし、僕はしゃべることを拒否した中国人を装うしかなかった。

 強迫観念は、言葉のハンディキャップをもつ者にとどまらなくなってくる。僕たちの緊張した糸は既に日常のベースに入り込んできた。ワンは漢族の同胞に堰を切ったようにしゃべり続けた。

 車中は相変わらずにぎやかだった。ウイグル人は、音楽や踊りがうまいと聴いていたが彼らはおしゃべりも好きだ。冗談をいい、わめくようにしゃべり羽目をはずしたイスラム教徒の歓喜の車中に彼らの解放した純な空気がみなぎる信じられないような時間だった。

 褐色の肌をした、一癖もふた癖もありそうな男たちはよくよく見るとどこかで見たことがあるような気がしてきた。新品の紺の人民服を着ている車内の人気者は漫画家のおおば比呂司のそっくりさん。つば付帽子をかぶった背の高い黒いサングラスのおにいさんは、イタリアンマフィアの殺し屋風。恰幅のいい大福顔は学生のころお世話になった先生似。茶色で身頃を包んだ御茶ノ水博士は一団の長に見える。そしてマドロスガイ、彼らを横目にギアチェンジに苦労して、腹をさするツルッ禿の運転手の布陣だ。何とかウイグル人を観察できる余裕が出てきた。

 とはいえ、存在感の無い闖入者であれ!をめざした僕たちには、荷が重い連中だった。そのことを一番に感じたのは、ワンだった。相棒と僕への合図は彼らの話題になるな、無言を決め付けろ、というものだった。漢族婦人との語らいの結論だった。

2008年12月14日日曜日

無謀な旅はわれらが誉れ




 
破天荒な旅立ち ・・キジル行

 僕たち三人の小旅行は無謀といわれても仕方なかった。中国では中国人と外国人同士の旅行は、当局のお墨付きをもらうことが無ければ、トラブル防止からほとんど無いに等しい。中国人の方から避けてしまう。

 ところが、中国画の先生で相棒と僕の友人であるワンはあえてその難しい旅に付き合ってくれた。かれの取材旅行は自分の見たい、知りたい欲求を自然と対峙することで納得がいく実理本位だったため、単独旅行かどうかは二の次のことだった。西域の厳しい旅行に日本人と一緒に慣れきれるかどうかが、芸術家のワンに試されることだった。

 彼から受信した波長は今のところ良好だった。あとで確かめたら、僕と相棒の二人については怖さしらずの日本人が、西域に足を踏み入れたとワンは見ていた。東北・ハルピン(哈爾浜)での送別のとき、奥さんからくれぐれも気をつけて、特に僕は中国語が話せないから、ということを念に押されていた。

 僕と相棒は、旅費が足りないため人民元ですべてを支払い、現地で必要なものを調達するようにしていた。これが中国を知る近道だと理解していた。その中国化は中国人風に成ることに通じる。ただ、中国人になりきるには準備も心構えも時間をかけなくては無理ではあるし、とりあえず中国人もどきでいこう、ということにした。

 日本人が中国人を真似る第一歩は政府ご推薦のホテルを避け、現地の人が好む宿に泊まることだ。ところがこれが難しい。クチャをベースキャンプに旅をするにあたって、宿を探すには苦労した。身分証明書拝見というやつだ。この場合、ワンは漢族の中国人で十分だが日本人二人と一緒でいる限り知識階級であるという自己証明が薄くなっていく。三人がねぐらを一緒でありたいと思えば僕たちはますます裏道りに追いやられる。流れ者の世界に入る気分をワンに味あわせてしまう。

 日本人二人のこの負い目は僕たち三人の結束力を高めるきっかけであるが、その旅の日常が旅なれというずうずうしさを助長することにもなった。僕の現地化作戦は呆れてしまう程だった。ウルムチではカーキ色の毛(毛沢東)帽子と半袖の軍シャツを買った。残念ながら靴はブランド物、黒のリーボックシューズのまま。だが、店員が記念写真を撮ってくれたほどの見事な現地化の悪乗りからこの旅は始まった。ウルムチを出発するときのワンとの筆談から始まって、中国人化問題は確かに日本人二人に課せられた壁であった。とはいってもワンとのそのときの筆談は、日本人は行けるときまで行く、ワンはカシュガル(喀什)行きを貫徹すべし、と緊張が張り詰めていた。

 (僕と相棒はクチャから西が難しいと思う。君はとにかくカシュガルに行ってよ)
 (いや、私一人じゃ行けない。行くなら三人一緒だ)
 (わかった。行けるとこまで行くよ、強行突破もありうる)
 この強行突破がいけなかった。僕は即席の軍人になってしまった。

 クチャではワンが写生したり、写真を撮っている時は、相棒が先導し、僕がワンを警護した。カーキ色に身を包み、深々と帽子を被りながら、傍らから近寄らないで、と難しい顔をした役者が僕で、この下手な脇役者を見る観客は、用水の橋の袂でワンの絵を眺める子供たちぐらいだった。クチャの中国人、多数を占めるウイグル人はワンがカメラを向けても無関心で、自分たちのペースを崩そうとしない。紛れも無く僕たちは現地人から見た漢族・中国人であった。

 いずれにしても、人だかりが出来なかったのが幸いした。もし、絵描きのワンに事故がおこっても、僕は無口な中国人のままウロウロするだけ。ガードする者が実はガードされている構図なのだから。

2008年12月10日水曜日

クチャの北には千佛洞あり



ワン(王)が、バスに駆け寄り運転手と交渉した。千佛洞まで僕たちを乗せてくれることになった。
急いで乗り込んだバスの後列では、男たちがにぎやかにギターの回し弾きをしながらはしゃいでいる。既に酔いがまわっているのかと、僕たちは場違いな中に入ってしまったことに気をもみながら、バスの発車に任せた。

ザワザワとした車中では、合唱とギターの伴奏もかみ合わない。ヒゲ面顔のウイグル人達がギターを囲み歌う。女性への冷やかしはこれが楽しみだからと言いたげで沸騰した笑いが凄まじい。僕たちと一緒に山羊一頭を担いで乗り込んだウイグルの娘さんがいい的になってしまった。

僕は、千佛洞に行くにはいったんクチャ方面に戻るんだなアと、ようやく察しがついた程度だから、バスがどこから来たのか気にもかけなかった。まして、バスに乗り込んでも席の騒がしさはまだ他人事だった。

古いものを大切にする習慣が中国の経済状況にもかみ合って、バスは徹底的に乗りこなした貫禄十分なチャーターバスだった。 車内の破損具合は椅子に止まらず、運転席はというと無骨な本体をむき出しにエンジンが中央部にドッカリと占領していた。気安く僕らヒッチハイカーを乗せてくれたのはいいが、乗客の主役であるウイグル人はてんで乗り物には無頓着なように見えた。

こざっぱりとしたウイグル人の服装からウキウキとした空気が社内を包んでいた。そんなバスツアーでその半日の時間をすごすことになるとは思いも寄らなかった。三十分後、バスは動き出した。

バスの中は次第に晴れ間が広がってきた空の青に合わせるようににぎやかさを増し、いい大人が浮かれきっている。漢族ならモンゴロイドの骨相から年齢の察しがつく。だが、ウイグルの壮年の男たちを見ていると勇壮な草原の騎馬団を思い起こし、年をくっているように見えてしまう。 年老いたおじさんやおばさん、子供たちは一族郎党の端役に見えてしまうから不思議だ。僕たち三人は、すさまじい笑い声に毒気を抜かれながら、恐る恐る末席を借りて座わった。 それにしてもウイグル人にこんな素顔があるなんて、と感心するばかりだ。

席をずらせ僕と相棒に席に座れと目で合図した親切な人はウイグルの連中の中でも端正な顔をしたいなせな男で、ごつい顔つきの彼らと、童顔の日本人とはまったく違うことを教えるような貫禄をもっていた。都会の顔と農民の顔で分ければ半々。その青シャツにジャケットを羽織った一風マドロスガイは、後でわかったが信望の厚い教師だった。

ワンはウイグル人の乗客達の中では唯一漢族とわかる婦人二人の間に収まり、相棒は呆れ顔で無言を決めきっている。バスはT字路 に立つ千佛洞の看板を右に見ながら舗装路を西に向かった。

2008年12月1日月曜日

新疆旅 キジル1~終章(10)




キジル千佛洞ピクニック



                   うき がく



  千佛洞行きのトラックが来ると雑貨屋のウイグル美人が言っていたが、当てには出来ない。ガタピシの四輪車が来ては、僕らを珍客と見て眺めすかしながら止まっては過ぎ去る。それも時たまのこと。トラックに便乗しよう、なんてえらい話だ。

 クチャ(庫車)から路線バスに乗り、郊外のヘイズ(黒孜)村の入り口あたりに下車してもうかれこれ二時間近くたっていた。村はずれの溜まり場は、野外特設のビリヤード、食堂、露店の集まったバス発着所でもある。

 その目印のない、衆人承知の簡素な停留所にやってくる村人の三々五々のあいさつに合せるように、僕たち三人は現地ペースの弛緩した時間に慣れようとしていた。
 僕たちは、雑貨商店小町美人のご推薦ともいえる二つ三つの露店をひやかしにかかった。

お手製のゆで卵や、いもデンプンをゼリー状にした軽食、ヨーグルトが雑然と並んでいた。人待ちげにしては愛想のない店番達が、佇んでいるだけが絵になる時間だった。
 道路の端に座り込んだその単品屋の中では、唯一長椅子が用意されたデンプンゼリー屋の前で、僕たちは三人並んで刺繍仕事に忙しい小町娘の手元を見つめていた。

 ヨーグルト屋に目をやると、お客を待つおばさんが、しゃがみ上手な格好ではにかんだように、食べないかいと合図をおくる。隣の同じヨーグルト屋は、痩せっぽちの男の子が主人だが、遠くからの声に応え早々と店を畳んでしまった。

灌漑用水路の水を汲みにくるイスラム食堂の若奥さん、雑貨屋と用水の間の木陰で編み物をする娘さんたちが歌を口ずさむ。精悍なウイグルの男達が、小麦の麻袋をトラックに積み込む。

 通りの向かいで興じるビリヤード周りがめまぐるしく人が入れ替わる男の遊びの世界なら、こちらは悠々と働く女性の溜まり場の世界といったところ。朝のうち曇っていた空から日がさす、凌ぎやすい小旅行日和になってきた。北京時間でもう、十一時近い。

 乗り合いトラックは来ないが、代わりにバスが止まった。途端にゆで卵売りのおばさん達がバスに向かって賑やかに売り込みをかけた。周囲が急に忙しくなってきた。


2008年11月24日月曜日

辺境旅に幸多かれ


「お前は何者であるか?」という問いかけは、H・ヘッセの「デミアン」の救いがあっても、いつまでもかみ締め、突破しなけりゃいられないことであった。今も「さあ、これからどうしよう」という態勢で、くもの巣にもがいている気がする。

「なぜ、シルクロードに行くの?」という問いかけが確かに聞こえた20代、「1975年の青春」では冒頭、相対する者とのなにがし、とあるが結するところ「消費生活を送り、生産は一生かかって生み出すものであろう」というこの一点に集約して旅立った。日本に生還し、家庭を持ち、子供が出来、仕事をし、社会の第一線から身を引いて今日に至る。そして・・

「1975年の青春」はその4の今回で中休み。日本~トルコ。次はトルコ~アルジェリアになると思う。中休み中は40代のノンフィクション冒険譚第一弾にスイッチする。

1975年の青春 4
9月3日50ドル換金。

(記憶遥か)
 炭団を敷き詰めたような石畳の坂道をのぼった。煤けた坂の手摺りのレンガに触れる。無骨なトルコ、虚飾の無いトルコ。空は真っ青の快晴だ。坂上から眺める。昨夕着カルス。トルコ2日目の早朝だ。町の広場は長距離バスが主役。きれいに磨いたバスは都会、エリートの匂いがする。
いよいよイスタンブールへ。気持ちが高ぶり、始めて見るバスが新鮮。警笛がトルコからの挨拶と受け止める。とにかく嬉しい。

 バスの中ほど右、窓際に座る。隣席は中年の農夫。帽子をかぶったひげ面の男、僕と同じ背丈。イスタンブールに着くのは4日夜になる。これから2日間一緒の寄寓から、握手を求めた。男は厳しい表情で拒否した。窓の外を指差した。外には送迎の一家族が、1点悲しそうな表情で男を見つめていた。
パキスタンへ出稼ぎ、家族との別れ、涙して声を掛け合っている。トルコの現実、辺境の現実。
「目のうろこが取れる」旅。(2002.1)

9月5日100ドル換金
 イスタンブール4日夜12時着。ヨーロッパ側のバスターミナルから中心街にタクシーで30トルコリラ。ホテル代50トルコリラ。ボラれたとしよう。

9月6日
エジプサシャンバザール、町のじゅうたん屋
テーブルクロス 二枚 80トルコリラ
トルコ石    三個 300
絨緞      二枚 1000

2008年11月15日土曜日

アイリーン、君に会いたい!




夕方から大森7中3年J組の同窓会がある。杉崎先生御存命依頼だから10年以上後無沙汰だった。眞三郎・父が無くなって、京都・大谷廟の骨壷団地で坊さんが「あえて言えば、墓前に兄姉が一緒にいる。順番でよかったのでは・・」と生命あるもののありがたさを語ってくれた。


今日は顔も忘れ、名前も出てこない友の今を知る。「みんな好く集まったね」といえるだけ幸せだ。

では、1975年の青春 その3

(記憶遥か)
ガイドのアイリーンと朝のタシケントツアー。朝からすでに気温は30度を軽く超えている。からっとしている。望んだ気候がこれだった。実感はただ暑い。強烈な暑さがこれから始まる。  
しかも、睡眠不足と時差ぼけでホテルを一歩出たものの、旅行気分がわいてこない。アイリーンに散歩したいとつたえる。しばらく無言で歩いて、コースに乗ることにする。ツアー客にはタクシーが用意してある。

乗ったとたん、どこに行くか,では、朝のバザールへ。新鮮かつ虫食いのリンゴを買う。 三つぶん。もちろん一つは世話になる運転手に。待たせてしまった車に乗りこむ。アイリーンが運転手にリンゴを渡す。運転手は猛烈に怒る。アイリーンも応酬する。
               
観光ツアーも終わりに近づいた。通りを挟んでタクシーが待機している。走っている車の台数は少ない。だが、緩やかな坂道の下り勾配のため坂上から車がスピードをあげて下ってくる。渡るタイミングを計りかねていた。どうしたものか、慣れない異国とはこういうことなのか。アイリーンは感じたのだろう。突然、私の手の平を握って・・つられて私は駆け出した。
アイリーン!君は誰にでもそうするの?そのときの自分はそんなに頼りなげだったの?(2002.1)               

9月2日
トビリシは、中世、近世、そして記憶に残るヨーロッパの名画、映像の姿、形がダブル。赤いレンガに均等なゴシック調の建物。町を歩く人々は色彩館の中を佇む、トルクメンの町、カラフルな色の洪水。ロシア、ソビエトの色ではない。

トルコ第一のイスタンブールに行けば、トビリシ、グルジアがどんな町、国だったかを思い出すだろう。国境を挟んで、グルジア、トビリシは印象的だが大トルコの遠い昔のような感じがする。通過国であるグルジア。
グルジアの青年と石鹸を交換する。物がない、刺激がほしい。資本主義の国の商品はいい香り、滑り感が違う、という一瞬の満足感が楽しい、と。ロシア人は好きではない、グルジアはトルコであるはずだ、と。ソビエト社会主義共和国連邦。共産主義ソ連ではない。

トビリシを蒸気機関の列車発午前5時38分。午後1時ボーダー発、トルコのアクヤカに着く。国境の非武装地帯の寒々とした風景、女性官のチェックは厳しい。残ったソ連幣価は没収。トルコ側は軽くパス。麦わら帽のシルクロードとシルバーロードの落書きに、愛想笑いの係官。
アクヤカは辺境の寒村。列車に乗りこんできた子どもが、金をせびりにせまってきた。ポーランドの男女三人が同じ車両の旅行者と判る。トルコの最奥地の洗礼。午後5時カルス着。1ドル使う。

2008年11月8日土曜日

ソ連がソ連であったとき


今日で法律上60歳になる。人生60年だ。あと30年、・・「どうなるかな・・・?」
それにしても、今年は眞三郎・父が死に、ヒラリー、緒方拳、筑紫哲也と続々だ。おまけに、金融恐慌、オバマ米大統領と盛りだくさん。自分は、どこへ行くんでしょうかね?足元を紐解いていくと続々と冒険譚が見つかった。少しずつ開示し、物の見方、考え方を通し、これからの時間を有効活用したい。

次に一九七五年の青春 その2


(記憶遥か)
船酔いで初日から気分が悪い。薬が効かない。昼間から船室で休むことにする。部屋に入ると、ピーターと吉田の両名が議論している。相当激烈、、雰囲気がおかしい。二人の議論の中味は、机上のメモを見て察しが着いた。文章を輪切りにして異説紛々、いがみ合っている。

「言葉は生き物。切り刻んで料理することはできませんよ、生きていますから」。私の一言で何故か二人の議論は中断。以後、吉田氏は好意的、ピーターはさっぱりしたような、これまでのインテリ発言が影を潜めるようになった。古本屋あがりの書生くさい一言が、どんな効果を発したのか?二段ベットの上で就寝。船も別世界ではない。日本のことも、世界のことも、どこにいても。(2001.10)

8月28日
ナホトカ19時30分着,20時30分発ハバロフスクへ急行寝台車。
8月29日
30ドル換金。ハバロフスク12時30分着

9月1日
機上、日の出前

 ソ連のボリュームに圧倒され、緊張から十分な睡眠が取れない。ナホトカから夕方の列車でハバロフスク。空港で定刻を十二分に待たされ、出発ジェットに向かうリムジンバスから突然一人、旅の友と別れ、別便の待機ジェットでイルクーツク経由タシケントへ。 日本語で叫ぶと答えてくれる、あってほしいものがない。寡黙な時間がスタートした。

 タシケントの朝,ガイドさんのアイリーン20歳。開口一番「ヤマさん」だもんね。日本語が聞けた。アイリーンは翌日、オーストリア人担当。翌日のデート申し込みは、けられた。

そして,ソ連の若者、アレ、イゴ、マレの三人。教育されたコミュニズムの力がどのように生かされるのか、話していて感じられない。なにせ昼間っからウオッカ攻めで酩酊している。ウズベクでキャピタリズムとコミュニズムを語り合うことが、彼らと話すことが彼らに失笑を買うことに成っているとすれば、それは一時の呑み時間のことであって、十分な公園での憩いの時間と言うわけ。

それにしても、中央アジア系のひげづらの初老のこじきが迫ってくるには、驚いた。ソ連にはこじきがいる。三人のなかのアジア系の一人が彼を追い払った。親切そうに追い払ったのではない。いかにも迷惑という風に。追い払った彼はどんな気持ちで・・・ソ連だから・・どう考えたらいいのか結論を求めることではないのだが。

歴史博物館、美術館、デパートを歩く。道で、公園であったアレ、アレキサンダー・スミイロフと再会した。ニコニコと、且つかしこまって近くのアレの一戸建ての家に招待してくれた。彼の弟がいて三人で椅子に座って、おもむろにアルバムを見せてくれた。海軍、赤軍、徴兵か。兵隊の自分たちのことを伝える写真。黒海での演習の写真。記念に写真を撮ろうとしたら、ソ連では外国人を民間人はまねいてはいけないこと。名前も聞かれても答えないようにと、恐縮したように言う。
最後に、彼の時計とカメラを交換しないかと提案してくる。断ると、ソ連の収集切手を記念にくれた。遠来の客をもてなす彼の素直なな気持ちがわかった。
家の門前で別れる。

現在,朝の7時。タシケントからトビリシの機上。低空飛行に入った。朝日を浴び砂漠が眼下に迫る。あと何日か、何ヶ月かの後に、砂漠の上を歩く機会があるだろうか。長い旅になる。気が重くなってくる。
タシケントはオアシス都市、多民族の国。

2008年10月26日日曜日

シルクロードに恋してます


”人生”という言葉を使う特権は、若者にある。実際よく使った。外国の女の子に手紙を出す中で”人生”を使う。いやみ?のひとつも言いたくなるのだろう、「あなたの言う人生は、生活なの・・何なの?」LIFEは難しい、ということに落ち着く。そんな哲学じみたことを平気で使う朴念仁だから、まともに付き合いたくなる男性ではなかったのだろう。

久しぶりにあった友達と自然にこういった哲学じみたことを語り合うと「久しぶりにいい話をしたなァ」なんていわれ、こっちがビックリしてしまうことがあった。いずれも20代後半のことだったけど。

ブログのスタートからこの"人生”にこだわり、自分が生きたきた時間の区切りを意識してきたのは、きっと”物の見方、物の考え方”にこだわってきたからのような気がする。そこで、というわけではないけれど、自分の原点、これを整理整頓したいと思う。

26歳から27歳にかけアジア、アラブの旅をした。これが、大きい。そこで、少しづつ日記を紐解き、現在から思い起こした心に残るあの時のこと、この二つの時間の動きを併記した新しい心象小説を手がけようと思う。
では、中休みもあろうかと思うけれど、少しづつ。


1975年の青春
                                      うき がく

1975年8月26日,私は横浜から旅に出た。約8カ月のロングラン。旅の長さは二の次,日本から出ることに意義を見つけ私は、旅立った。出ることが,当時の私の救いであった。閉塞している世界と私の存在を切り開く機会を探っていた。・・・生産と消費、シルクロードとシルバーロード、東洋と西洋,日本と世界、社会と私、私と友達、私と好きな人・・・反する何かとの戦いであり、私との葛藤に費やしていた時間との決別、空間の飛躍。日本から出ること。

8月26日
晴れ。横浜/横浜大桟橋。小杉が港まで仕事を抜け出し、来てくれた。11時出発が二時間の遅れ。ナホトカまでの二泊三日の定期航路は、ジェルジンスキー号。
所持金1672ドルと3万円

英会話教室の先生・ウイリアム・ピーター氏(アメリカ人)とコンピュータの専門家、トビリシの学会出席の大学教師・吉田氏と相部屋。ピーターは真面目で行動的なインテリ。吉田さんは気が小さいが,自信満々の若手エリート。
甲板で、ベンチに座ってよもやま話の面々は・・札幌から帰露する領事館一家。子どもは双子を合わせて5人,みな女の子。男の子がいないので寂しいと気さくに話す。自称半分づつの先生かつ教師のドイツ人。なにが半分なのか,同じようで違う先生,いや教師。ニュールンベルグ郊外に住み、日本では人気があったと言う。僕が一度ドイツ語で挨拶したことを忘れない,大変気を使う寂しがりや。なんで僕がシリアスマンに成るのか分からない。会うごとに丁寧なあいさつをする。


次ぎに日本人のバックパッカ-、ポーランドの学会へ出席すると言う院生、エトセトラ。
同じような気持ちで,同じようなスタイルでヨーロッパへ行く若者なぞいるわけがない。必要があって,目的があって行く。我らは洋上でくつろぎ、おだやかな地平線と陸をただ見つめ、たおやかな時間に帰っていく。新鮮な空間に日本人が和んでいる。

ソ連の女性はどこでも,いつでも一生懸命働く。実に忠実かつ悠然にして大らか。自分の仕事だけする。船のなかのホステス,インツーリスト、係官が、すべてそんな風。ロシア人がソ連人を代表して。

2008年10月9日木曜日

だった、こと。



人生は何年?現在の感触では90年といって言い過ぎではない。40歳の頃考えた。

一世代が30年、すると人生は三回のクールがあっていい。40歳は一生の後半戦に向かう地点。なら、ここらで切り替えてもいい。体力、気力できつくなってきた専門紙記者を辞め、好きな写真と文章を駆使して独立しようと考えトライした。

だが、事態が許さなかった。しばらくはと考え、営業の仕事をした。ところが、仕事の中身が面白かったことから新聞社以上の勤続時間をすごしてしまった。そして、60の大台にきた。

人生は後30年になってきた。確かに周りを見ると、老けるのが急速にやってくる年代だと感じる。父親が「70歳になっても心は50歳、でも体力は気力をはるか遠くに置き去りにして目の前を通り過ぎていく」という、ため息交じりの言葉を肝に銘じなければいけないかもしれない。凡人であれば、そこを基点にコツコツとことをやり遂げるとしよう。
では、何をやり、時間をすごすの?「時間をすごす」余裕が後30年と過去との大きな違いだから。

2008年10月7日火曜日

有限の時間



久しぶりの原稿書き。緊張するし、はて何を書き何を伝えたいのか・・まだはっきりしないんだ、正直な話。
今関心があること、素直に出したい。過去、将来でなく今を知ることから始まる。このことを肝に銘じて継続は力と信じよう。
ひとつはパソコンを力としたい、これがスタート。エクセル、ワード、タイピングを納得できるラインに押し上げること!
11月で60の大台。社会的にも、身体的にも大きな節目。そして私にとっては第三の人生のスタートだ。この人生私感を次回にでも・・アトムヘアー