2009年9月6日日曜日

シリア パルミラ、ベドウィンテント指鉄砲殺傷未遂事件




                      
     
 
       
  9月29日
  (記憶遥か)       
 笑い声に小声、その合間にギターに合わせヨーロッパ歌謡を奏でている隣り部屋。陽気なギターの音色が聞こえてはいるが、旋律がくるくる回っていても頭の中の芯はクールだ。私は枕に顔を乗せている現実に引き戻され、寝られない。もう、12時過ぎ、私は砂漠のテントから引き上げてから安宿の一室でうつぶせの体をなしたままだった。

 夕方、街に出て行商のパン屋に群がる住人たちと争うように焼きたてパンを買った。軽めの夕食がこの時間になると響いてくる。昼間の暑さとトラブルで体も神経もカッカして余計眠られない。ひと言いいたくなる。「なんでこんな遠くまで来たんだろう・・帰りたくなってきた」。ついにくるものが来たようだ。

 なぜって、ベドウインテントの天井の小さな穴を指差し、その指先をこちらに向け「ダン、ダンッ!」とくれば間違いなく脅しでしょう。右手の親指と人指し指をこすり合わせ「金をよこせ!」とくる。指弾するように指鉄砲を向けさあ、どうする、と吼えるテントの親父の恐いこと!そうくるとこちらは間合いをあけて、直立しながら「ありません!」と、脅しへの返答を繰り返すばかりだった。

 これが二度、三度と続くと語気を強めたテントの親父も堪忍袋が切れた様子で、むかってこようとする。が、帰ったばかりの仲間の若いガイドが静止する。「客をこんなに呼んできたんだから、彼らの前でやめてくれ!」という。確かに、この数日の不振が吹っ飛ぶようなこぎれいな西洋人の旅人が5、6人飛び込んで来た感じだ。悪くいえばポンビキに引っかかった客人がベドウィンテントの無料宿泊に惹かれ、はしゃいでいる。

 自然と貧乏旅行者には早く消えろと合図を送ってくれている。が、親父はぶつぶつと体を震わせ、わめきながら再度の威嚇動作をかける。私はといえばザックをしょって深々と頭を下げお礼をいい、道なき砂漠の先にかすかに光るタドモル市街の明かりを目指し歩くことにする。

 親父の言い分はこうだ。「2日もいたんだから宿賃を払え!」。でも、最初の約束は「ノーマネー!」。私は「払う気がないんです!」と、言うしかない。歩きながら、このタイミングを逃したら大変なことになった、と反省と若干の安堵で歩幅は早くも早足になった。

 実際、パルミラ行きはワクワクしたものだった。ガイドブックによれば、パルミラに行かずして、と賛辞を贈る名跡だ。褐色のシリア砂漠をローカルバスで向かう。遺跡全体が見えるころ周り360度は地平線に囲まれている。北東に延びる山脈にぽつんとアラブ城砦。風雪に耐えた石の遺跡群がフィールドに累々と横たえあるいは直立している。

 フランスの青年とアレッポのバス停で会い、道中の雰囲気は旅行気分十分だった。路線バスがテントの前で止まった。観光ベドウィンテントに誘われ合言葉のようなノーマネーに惹かれ僕らはテントに荷物を置きそれぞれ目指す遺跡群にアポローチをかけた。

 斜陽を受けて赤く浮かびあげるベル神殿、砂漠の中に突き出す列柱の大道り、ローマ劇場、記念門。佇む旅行者に手を振りながら羊を従え東から西に歩いてくるベドウィンの羊飼いと挨拶をかわす。パルミラのハイライトに長けたベドウィンテントの親父は誇らしげに僕らに接した。

 ずうずうしさと素朴さの素性を宿主に預けた私は、共通語がにがての英語であるような、口ひげを生やした端正な顔立ちのフランスの青年に食事の時間は主導権を渡した。親父の話し手は彼になった。
 フランスの青年は旅慣れていなかった。一晩泊まった彼は翌朝、持参のシートをお礼に親父に渡し早々と去った。二日目の遺跡めぐりを終え、私は今日は街に泊まろうと身支度をした。

 朝の路線バスは快晴の下、遺跡エリアを通過し、一路ダマスカスに向かった。遠くに見えるベドウィンテントから小粋な麦草帽子をかぶったスーパーマリオ似の親父が,悠然と朝陽を浴び私の乗っている路線バスを見つめていた。(2009.9)