2012年12月22日土曜日

わたしの世界の七不思議 Ⅱ 再会



1月31日ヴァラナシ

2月3日 ゴンプール車中泊

2月4日バイラマ

 

2月1日

(記憶遥か)

 知ってか知らずか再会ほど不思議なものはない。昨日まで同室だったカナダ人が、いらぬお世話でこちらがえらい目に合っていたのにそれを楽しんでいたかのように「元気だったかい!」などといわれると「君はよく御無事で!」と言い返したくなる。

 その時の私は強烈な煙にまかれ「君はゴールデンウルフに見えるんだけれど!」などと呂律の廻らない会話をした。彼は「さっきまで君の英語はよくわかったけど今はわからないなァ!」などとしらを切ってとぼけていた。彼はわたしに別れのみやげを贈り、わたしをもうろうとさせ、自分の後の楽しみを謀ったに違いなかった。彼は良質な煙をハンターする常習犯だったのだ。

  宿替えの効果を翌日、偶然の再会で楽しんだ彼は、日本では北海道に行った話を懐かしがっていた。日本にもいらぬお世話の旅行者を追いかけ、煙ツワーと称し、多くのヒッピーもどきの外国人を囲い込み、甘い汁を吸う遊び人がいることをわたしは知った。世界のシークレットな旅の仕方は既に日本でもその筋では知られていたのだ。

  ヴァラナシの喧騒は続く。お茶を飲みたくなって茶屋の椅子を探した。外国人同士の相席になった。一方が盛んに話しかけている。見ると英語版のナショナルジオグラフィック誌をさし示している。アフガニスタンの地図の北東部、わたしが行ったクンデュズの先、ワハーンの細い回廊地区について熱弁をふるっているところだった。聞き手の若者は関心のないようにふるまった。すると話し手はあっさり席を立った。
 
 わたしは奇妙な会話に興味をひかれ残った彼に「君はそこに、アフガンに探検に行くのかい!」と尋ねた。すると彼は支配する側の探検は許せないという主張をわたしに真剣になって話した。わたしは本田勝一の論理を聞いているようで感心してしまった。こんなところで支配と被支配の論理が展開される。インドのガンガの川端で死体を焼くヴァラナシで聞く話ではない。でも、五か国語を話すのが当たり前というスイスの若者には許せない話なのだろう。わたしは一層感心して彼と別れ、喧騒のヴァラナシの街を再び歩き始めた。
  その時、わたしはスイス人の彼を見たことがあることに気がついた。

  イタリアのブリンディシに夜行で着いたわたしはユースホステルに泊まることにした。どうみても十代の男どもが廊下をストリーキングしている奇妙な宿だった。夕食のセルフの食堂は日本人を含め若者でいっぱいの人気の宿でもある。トレーの前に並んでいる多くの日本人の中に一人のヨーロッパ系の外国人が盛んに関心したように一人の若い日本人に話しかけていた。するとその日本人が罵声をあびせるようにその外国人にひとこと言うと、周りの日本人がドッと笑い転げた。その遮断され置き去りにされたような外国人がそのスイス人だった。

  罵声を浴びせた日本の若者とは相手が知ってか知らずかパキスタン、タクシラのユースホステルで再会した。タクシラの遺跡を巡りわたしはすっかり暗くなった宿に着いた。わたしは宿の主人に日本人は泊まっているかい、と聞くと一人、まだ帰ってこないと主人は言った。ほどなくして一人の日本の若者が外が真っ暗の中を帰ってきた。わたしは皆が心配していたよ、と彼に言うと彼は一体誰のことだい、といいたげに尊大な態度をとった。

 わたしは彼を見たことがある記憶をたどるように気楽な会話を心がけた。彼はトルコのイスタンブールでは郊外に短期滞在したことを自慢げに話した。実を言えばわたしのイスタン郊外・カルタルの短期滞在はガイドブック通りの初心者コースの滞在だったのだが、彼はそのショートステイが彼のオリジナルのように話すので、わたしもイスタンでは郊外に滞在したよ、というとバツの悪いカオをした。20歳になったばかりの学生にしては老成した旅行者だと知れてしまうことを彼は気にしたようだった。

  ブリンディシのホステルでは三人目の遭遇者がまだいた。食堂の行列に並んでいたわたしに後ろから外国人が声をかけてきた。「君をシリアのパルミラで見たよ。君は食堂の前で自転車のパン売りのオヤジに話しかけていたネ!」なんて!わたしにはその初対面な人の話がウソのように思えた。そのすらっとしたひげもじゃの若者はイギリス人で音楽の先生だそうだ。