2011年2月26日土曜日

他人(ひと)のふんどし



11月13日~15日 ミコノス島


11月16日 アテネ


11月18日


(記憶遥か)

 夕方、小脇に五枚の絵をかかえアテネの中心街にでかけた。絵はカナダのトロント大学に留学し、日本に帰る途中の学生がホテルで描き,置き土産にした肖像画だった。その学生はパスポートを盗まれた口で、予定が立つまでの長期滞在だった。絵描き作業はキャンバスにとどまらずジージャンのバックプリントにドラゴンの絵を描く凝りようで、滞在していた西洋人が事後了解のようにしてジージャンを着て市内観光に行くのでいささかおかんむりだった。



 しまいには二日続きだといって「日本人をばかにしているんだ、やつらは」とふてセリフをはき、カナダの留学時の屈折した気持ちをあらわにする怒りようだった。そのせいか4号のキャンバス地に描いた絵はシニカルなアメリカ人、フランス人、アラブ人、カナダ人・・の作品だった。



 その絵がベッドの横になにげなく立てかけてあった。ユースホテルには昨日、日本人の旅行者がいっせいに陸路をトルコに向け出発してしまい、私だけが残っていた。捨てられるのは惜しいと思いかってにもらい受けることにした。



 中心街でちいさなロータリーをみつけた。この日もデモの影響か車が少ない。石柱に絵を並べたが一人も客が来ない。一番の頼みである観光客が少ない。立ちんぼうも小一時間もするとあきた。売る場所を決めるのに時間がかかってしまい店の灯りばかりが目立ち、暗がりでの商売をあきらめた。



 建物を巡りながらの帰り道、運がいいことにこうこうと灯りがついた一軒の画廊がまだ店を開いているのを見つけた。店の中に入り店主とおぼしきギリシャ人に絵を掲げ買ってくれないかと伝えた。彼は好意的で買う気になっていた。まずは値決めの商談で合計が日本円で5,000円になることが分かった。了解したら絵にサインしろという。私はキャンバス地の右端にサインしようとしたが、グチャグチャと書くのもきがひけて、後ろ側の真ん中に小さくサインした。店主はけげんそうな顔をしたが無視して貰うものをもらって店を引き上げた。



 ホテルに帰りカウンターごしに佇んでいたら一人の日本人が声をかけてきた。昨日、皆といっしょにバスでトルコに行ったはずの同世代の名の知れた登山家だった。彼はホテルで初めて会ったとき、いきなりアルバムを広げ写真を解説しだした変わった人だった。その時の話がうらやましい。アテネに着いてアクロポリスの丘に登り遺跡を見物していたら、地元の女性から声をかけられたという。話の中で彼女の旦那さんが船乗りで長期不在だということがわかり、日本人に安心感があったのか彼女に誘われて一週間家に泊まらせてもらった、と意気揚々だった。



 アテネ妻と別れボーッとしていたのか彼はパスポートを忘れてきたのに国境近くで気づき、戻ってきたのだった。


 彼も私もいい目にあった。だが、私は翌年日本に戻り、その年新聞報道によれば彼はイタリアアルプスで滑落死した。




2011年2月14日月曜日

デモと共にカランコロン


11月10日 アテネ
220㌦両替 270ドル

11月11日
10㌦両替 260㌦


(記憶遥か)
 工事現場のねぐらを後に、私は雪の止んだ早朝のアテネの町を歩きだした。小春日和の散歩のように、アテネのきれいで、落ち着いた街並みやウインドーごしを目をみはりながら歩いた。幅の広いフラットな歩道に町のつくりをみる気持ちのいい朝の散策だった。しばらくするとユースホテルを見つけた。ここまで来ると自分の昨日のねぐらが中心街の目の先だったことがわかった。アテネは静かな観光地だ、とかってに思ってしまった。


 実際はそうではなかった、そうではあるが、そうではない部分がわかってきた。ユースホテルの大部屋には日本人の若者が集まっていた。情報交換しているうちに日本人が狙われていることが分かった。ホテルのカウンターに預けたパスポートが日本人の分だけ盗まれていた。貧乏旅行者ではなくユーロパスをつかいながらヨーロッパを旅行する者が被害の大半だった。それは政治がらみで流用されているのではないかとか、日本の赤軍派がからんでいるとか、ギリシャの治安悪化にまで話がおよび深刻だった。


11月17日(金)
 1973年11月17日、民主化を要求し、アカデミー・スクール・ファイン・アートを占拠した学生に対し軍は戦車と機関銃をもって応え34名の学生が死んだ、という。今日、ファインアートの殺りく現場に飾られたバラの花輪には学生の死を悼む人々のメッセージが小雨の中にうかんでいた。人々は花をたむけ、ギリシャ音楽が流れアメリカ、軍政に抗議の意志を示している。デモの波は大学生といわず高校生たち若い世代や市民が続々とこの現場に集結していた。薄暗くなった夕方になってもそのデモの波は整然と続いていた。これがギリシャのアテネの一日だ。


 アテネの中心街を僕はチュニジアで買った木製のサンダルをつっかけ歩いていた。カランコロン。寒くなっても既に靴下は用無しで、北アフリカの旅以来、素足にバスケットシューズのいでたちが自分の旅のスタイルになっていた。それが履き心地のいい木製サンダルの気安さに慣れきってしまい、船のデッキでも声高にサンダルで歩きとおした。この日、中心街の散歩なのに格好も気にせず、デモ行進を支援するように石畳とコンクリートの道を木製サンダルの音を響かせながら時間をかけ歩いた。

2011年2月5日土曜日

アテネはしんしんと雪の中


11月6日 イタリア ローマ
30㌦両替 530㌦

11月7日 ブリンディシ
20㌦両替 510㌦

11月8日 ギリシャ パトラス
20㌦両替 490㌦


(記憶遥か)

パトラスの街灯の灯りが印象に残る波止場に近いバス停からアテネに乗り込む。もう、アラブの喧騒とはしばらくおさらばと感じるだけ気持ちが落ち着く。不安と刺激がうすくなりホッとした気持ちでヨーロッパの街に足を踏み入れる一人旅。これも旅の仕方だ。

アテネには午前0時頃の到着。ブリンディシからパトラス間のフェリーでは、若者ばかりのバックパッカーの喧騒をしり目に三等の大部屋の椅子の下にもぐりこみ十分寝たつもりだった。でも、疲れがたまっていてパトラス、アテネ間も寝ずっぱりだった。そして、アテネは雪の中だった。

アテネ着の停留場が市街のどこらへんなのか、地図がなくてもバスの到着する場所はどこなのかわかるはずなのに思考がはたらかない。寝ぼけまなこのアテネ到着は、低層の建物がまっすぐに伸びた幅広い道路の明るい街灯とともに浮き上がり、空の漆黒との対照が視界にやきついた。

しんしんと降る雪の静けさに任せてしまうことになった。ホテルを探す気がしない。道路際に建設中の家屋が目に入った。何度目かの野宿をすることに決めた。

柵の扉をあけ、コンクリート造りの建物に近づく。すぐに木の作業台を見つけた。台の下で寝るには十分なスペースだ。寝床のガラクタを手で掃き新聞紙を敷き、封筒状のシーツとハーフシュラフに腹巻をしてもぐりこむ。モコモコのダウンジャケットを上半身に巻き付け居心地を確認する。

目を閉じる前に気が付いた。今日は27歳の誕生日だ。

さて、どうするか。よし、日本に帰ろう。帰ったらなんでもやろう。怖いものなしだし、食べるためには何でもやろう。そう、決めてわたしは目を閉じた。