2009年2月2日月曜日

キジルの落書きは中国を語る


 見学コースに乗る答えを出したのは、ワンだった。ワンは正攻法で難題の扉を開けた。千佛洞の入り口にある管理事務所を尋ね、壁画を見学する案内を頼んだ。ワンの中国画人であり大学の研究者の権威がものをいった。

 相棒と僕は、ワンに呼ばれ管理事務所に入った。管理事務所は日干し煉瓦で作られ部屋はヒンヤリとし、ベッドが二つと机が雑然と置いてある男所帯の部屋だった。
三人の漢族がお茶を煎れ歓待してくれた。彼らは、この千佛洞に半年常駐しているウルムチの考古学出版社の社員を含めた研究者だった。ワンが彼一流のウイットを込めて僕らを紹介した。

 ワンは、相棒が留学先のハルピンから北京経由でなく上海経由で日本に戻る行動範囲の広さに敬意を評し「中国語の発音の中でも難しい巻き舌の発音に慣れていない上海人」と告げた。そして、僕は朝鮮系中国人になった。ワンは写生旅行で中国・東北地方の吉林省や黒龍江省の奥地に行き、そこで出会った朝鮮族の人達は中国語を話すでもなく朝鮮語の文化圏を守る人たちが居ることを念頭に、僕を紹介した。僕は中国語を話さない朝鮮族になった。

 その事務所は千佛洞のセンター機能を担っていた。研究員の一人が案内してくれることになりまず、先の招待所に戻り詰め所の案内係の漢族の男性を紹介してくれた。いよいよという時、見学コースのとっかかりで、回廊にいた僕を見上げたあの漢族の壮年男女二人に出会った。

 我々が遠路はるばるやってきたと紹介してくれた研究員の言葉が終わらないうちに相棒に向って一人が「あなたはさっき、北京から来たといったではないか」とちゃちをいれた。単独行の見学の時、相棒が窟にかかっていた木のか細いはしごを昇り撮影していたことをとがめた当の本人が問い詰めたものだった。その場はワンがうまく取り繕った。意地悪そうに相棒を見据えたその女性研究員の苦言は、我々三人の嫌疑に転化しそうなモードを僕は感じた。キジルの見学はオープンではないのだ、というその女性研究員の強い姿勢を見せつけるものだった。

 見学コースの石窟の一群にようやくたどり着き、窟を巡った。石窟の中は、人為的な破壊が覆うべきもなかった。その中で壁画の時代時代の形式や仏教説話の有様を研究員が説明した。濃い墨で描いた顔の輪郭、飛天の表情、仏教伝来図、東西文化の交流を陽の壁画の世界。これに対する満身創痍の壁画は遺跡巡りの我々に陰の世界をみせていた。僧房窟では入り口近くにオンドル跡が残っていた。その窟には絵巻が一部分残り天井を飾っていた。ある窟では側壁の下の部分の壁土の色が変色していた。修復が進んでいる窟の下層の窟が水害の被害を受けたためだ。ムザルト河の増水は、時に20㍍以上になり石窟が水没してしまう。側壁が上下色違いのまだら状になる説明は、研究員ならではの指摘であった。

 何年か前までキジル村が人民公社であった時、窟がヤギ小屋代わりに使われたことがあり、壁画は泥を塗られた。文化財に対する無理解があった。その一方で、文化財に対する人々の思いを知った。窟は天井絵、壁画がすべてだと思っていたがそれだけではなかった。第三十八窟に入った時、主座の仏の壁画がすっかり削り取られていた。扉からの光だけが頼りの薄暗い窟の前壁・窟頂前部には仏絵がわずかに補うように描かれていた。その仏像画が抜け落ちている足元に顕花やお供え物、賽銭が供えられていた。ホッとする瞬間だった。

 その行いは僕には以外で、観光コースに乗らない現代のキジルの素朴な営みに感動し、思わず天井に向けて隠し持っていたカメラのシャッターを押した。相棒にさとされた僕は薄暗い石窟から外の明るい場所に体を移した。「疲れる。日本人とはっきり言いたいなあ」。ため息混じりに吐露した。

 その胸のつかえをさとすような出来事に壁画の世界に華を添える最後の房窟の十窟で出会った。その主房窟の隣の小窟には朝鮮族のメッセージが時代を越え鮮やかに墨跡されていた。

 「私は、ドイツのVon Le Coq著の「新疆文化宝庫」及び英国のSir Stein著の「西域考古記」を読み、新疆に埋蔵されている古代芸術品が甚だ豊かであることを知り、そのようなものがあるなら新疆へ行こうと思い立ち、一九四六年六月五日二人で当地を訪れた。
 その壁画は目を奪うばかりに美しく、全てが高尚で芸術的価値があるのを知り、わが国各地の洞窟廟の管理に及ばず、惜しいかな多くの壁画が外国の考古学探検隊によって剥がされ、持ち去られたことは全くもってわが国文化上の一大損出といわなければならない。
 私はここに十四日間滞在し、油絵の具で模写を何窟か試み、幹部役人への報告のための十分な準備を整えた。
 翌年四月十九日には趙宝麟、陳天、国強孫必棟等と共に再びここを訪れた。
 まず、七十五の洞窟に正しく番号をつけ整理し、その後分別、模写、研究、記録、撮影、発掘を行い六月十九日にとりあえず一段落することにした。
 古代文化に一層の輝かしさを加えるために参観者諸氏の格段の愛護と保護をお願いする。
        韓楽然 六月十日
 最後に十三号洞下に一組の洞窟を掘り出した。計六日間、六十人の使役を必要とした。壁画は斬新でこの洞窟を特一号と名づけた。
     六月十六日         」
          (松岡秀直訳)