2009年12月20日日曜日

北アフリカ急ぎ旅 アルジェリア 落とした事件Ⅱ アルジェのおちびさん 君はどこにいるの?


(記憶遥か)
 アルジェの中央郵便局で私を助けてくれたのはアルジェ大学の女子学生だった。彼女たちの会話はすべてフランス語で、三人のうち背の高いスレンダー嬢とおちびさんの二人は英語を話した。日本人とは初めて話したようで、彼女たちの関心は同世代の男性に興味が移ったようだった。N社の訪問が夕方になったため、彼女たちに付き合うことになった。

 行き先はアルジェ大学だった。坂道を一緒に歩いていくと女友達が合流した。スレンダー嬢が盛んに話してくる。女子学生の好奇心そのもののたわいもない話だが、私には久しぶりのリラックスした時間だった。その有難さをかみ締めた。

 歩いていくテンポが間延びしたようなタイミングで坂道の上に来た。そのうち彼女たちの中では一番年下の女の子が、急に泣き出した。仲間内では誰も泣き止めることが出来ないようだったので、私は立ち止まり彼女の前に来ておせっかいにも胸に腕を組んで「大丈夫かい?」と心配してあげた。

 どうやら、その女の子は私が従兄をアルジェまで訪ねにきて、お金を落としてしまい、遠い日本に帰るに帰られないような状態だ、ということを女子学生達が話し合っているうちに大げさな話になり、感受性の強いその一番下の女の子が悲観して泣いてしまったようだった。ほかの女の子はこの子ならしょうがない、というふうに傍観していて、私はまた、「大丈夫かい?」とさとしてあげた。

 坂道をさらに歩いていくと今度はスレンダ―嬢の男友達が合流して、彼女との会話から「何がほしいの?」と、聞いてきた。私はパンがほしいといった。彼は好意で食べかけだった小さいフランスパンを差し出した。私はいいんだ!とおなかがすいたのではなく、持っているお金を大事にしなくてはならない状態なんだ、と伝えた。そのうち、スレンダー嬢と男子学生はグループと別れていった。

 大学に着き構内のベンチに座りキャンパスライフを眺めていた。気持ちのいいポカポカした陽気に付き合ってくれたは、郵便局からのおちびさんともう一人の女子学生の二人だけになった。そのうちづんぐりとした男子学生がやってきておちびさんたちと話し始めた。私は、昨夜の風呂屋泊まりが響いて赤黒く腫れた額をかきながら、メンソレタームを塗り始めた。「南京虫にやられたんだ」と、私はおちびさんに自分の惨めな気持ちを正直に伝えた。おちびさんは「大丈夫よ、たいしたことないわ」と慰めてくれた。そのうち男子学生が「カラテ!カラテ!」と話しかけてきたので違う、違うと答えるのも億劫に、彼にブルース・リーの話や沖縄空手の話を嫌々話した。

 そのうち、おちびさんがアルジェリアについて知っていることを話してくれ、と聞いてきた。私は映画で見た「アルジェの戦い」と、つぎにアルジェ生まれのカミュの「異邦人」を読んだと伝えた。彼女の反応がないので私はアルジェリア民族解放戦線のスポークスマンだったフランツ・ファノンの本を読んだ、といった。おちびさんは、「それは翻訳本なの」と尋ねてきた。私はフランツ・ファノン著作集(みすず書房)を読んだといった。しばらくしておちびさんが思い出したように「その人のことは聞いたことがある」と反応した。

 その時、フランツ・ファノンを思い出した私は、おちびさんが、現地語のはずのアラビア語を一言も話さず、あいかわらずのフランス語と私に話しかけてくる英語で会話することに違和感を感じていた。それも郵便局で会ってからずーっとそうだったからだった。

 フランス領マルチニック島生まれの黒人、フランツ・ファノンが処女作「黒い皮膚・白い仮面」で語る、自分とは何者なのかというアイデンティティを巡る葛藤が独立して13年あまりのアルジェリアの若者には見られない。そのことが私にはものたりなかった。私と 同世代の彼らが、占領国だったフランスの言葉を友達同士で流暢に話すのが当たり前で、まるでファッションのように使う学生が特権階級のように見えた。彼らの普段の姿がまぶしく見え、また違和感を私は感じた。

 それからアルファベットで住所を書いてくれとおちびさんが言うので紙切れに名前と日本の住所を書いていると、おちびさんが「きれいに英語を書くのね」といった。私は「僕が書く日本語はみんなが汚くて読めないっていうんだよ」と言うとおちびさんは笑った。

 しばらくして、私は二人がバスで出かけるというので街のバス停まで見送った。おちびさんは住所を教えてくれた。私はお礼のあいさつをして近くにあるというN社まで歩いて行った。

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背が小さかったから、おちびさん

Miss Zineb Bella
26、Rue des pins Hydra Alge Algeria


一年後、私が日本に戻ったらおちびさんから何通かの手紙と缶入りの飴が机の上に置いてあった。何回か文通してそれからおちびさんがアメリカに留学し、日本人の若夫婦に英語を教えていると書いてあった。おちびさんのアルファベットは彼女が言うようにあいかわら

ず右から左に書くアラビック流の癖があってあまり変わらないんだなぁ、と思った。もう少し文通したいといっているうちにおちびさんはイラク人と結婚するつもりだと伝えてきた。私はあの、べっとり手のひらに汗をかいたイラク人と結婚するんだと感心してしまった。
そして、イラク戦争。おちびさんはいったいどこで暮らしているのだろう?


次回から「1975年の青春」は中休み。

2009年12月12日土曜日

北アフリカ急ぎ旅 アルジェリア 夜行列車・寝ぼけてサイフをトイレに落とした事件




10月23日 チュニジア
42ドル換金  1050ドル

10月25日
10ドル換金  1040ドル

10月27日 アルジェリア
 (車中) 840ドル(チェック)紛失
      計200ドル
アルジェ
20ドル換金   180ドル

10月29日
20ドル換金   160ドル

10月30日 チュニジア
20ドル換金   140ドル

10月31日
60ドル換金   80ドル

11月2日 イタリア
11月3日 (船中)
20ドル換金   60ドルと3万円
11月5日  ローマ
11月6日
ニューヨークシティーバンクローマ支店で
500ドル(チェック)を回収 計560ドル
(記憶遥か)
 「夜中にトイレに行きたくなって、後ろの車両のトイレに入りました。腹の具合がよくなかったもんで、しゃがんで一息ついて立ち上がろうとして、ねぼけて二つ折りの腹巻の中を探ったところポロンッ、とチェックの冊がはみ出て落ちてしまったんです(笑い)トイレの穴の下は鉄道の線路がビュン、ビュン飛んでいるのが見えてふたがない。うんこもチェックもストレートに落下し一瞬です、ピューン、です。(大笑い)

それで、なにが起こったんだろう、と一瞬考えてヘラヘラッ、となって(笑い)「これは現実なんだ」と気持ちが切り替わってすぐに車掌さんを呼びに行ったんです(笑い)車掌さんは僕がトイレにお金が落下してなくなってしまった、と簡単にパントマイムで伝えるとわかってくれたようで、仲間の車掌さんを呼びに行ったり。でも、どうしようもないのがわかっていて、首をがっくりおとしてくれて。(笑い) 」


署長は時々、参集の警察官と一緒に笑ったり、くすくすと肩をゆすったりしていたが、よい反応があったようだ。20坪ほどのレンガ造りの建物の中は何もないだだっ広い大広間で、嬉々として私の「わけ」を知りたくて警察官が続々と部屋に集まって私のパフォーマンスを見ていた。

その警察官達が、納得したように引いていく。そのタイミングにあわせ所長はタイプを持ってくるように指示し、仕事部屋から大広間に移した木のデスクに向かい思案しだした。私は手元にあったパーカーの大事にしていたボールペンを署長に渡し、シティーバンクに送るトラベラーズチェックの紛失証明書の作成を改めてお願いした。

 一時間ほどでフランス語の証明書が出来上がった。アルジェ駅に近い警察署だったためこの種の話には慣れているようで、待っている間の私と平警察官の会話は「アルジェリアについて」のお定まりのお国自慢だった。私が伝えたのは、「アルジェの戦い」の映画の話で、夜行列車の事故後応援に駆けつけた車掌さんと同じように警察官もタタタッ、タタタッ、と機関銃を構えるスタイルに夢中になっていた。

朝っぱらからの余興に続いて今日は急がなくてはならない。つぎは日本大使館だ。大使館に聞くことはアルジェのN社の住所と電話番号そしてフランス語の速達というスペルを紙に書いてもらうことだった。速達便でニューヨークのシティーバンク本社事故係に送る手紙が厄介な内容になる。大使館に着いて日本人の男性スタッフに事の顛末を伝え自分を落ち着かせた。そして、スペルの件を頼んだ。そのスタッフは皮肉交じりに英文の依頼状は書けるのかい、といって席をはずした。

しばらくしてアルジェリア人スタッフに代わった。彼はあえて時間をとってくれ別室でN社のメモをくれた。椅子を対面に置いてスーツ、ネクタイ姿のピシッとしたエリート係官の質問に答えた。事の顛末より彼は今日の泊まり場所は決まったのか、と親身になってくれそうな姿勢を見せた。私はガイドブック通りの安宿を提案した。「こうなったらバスに泊まるしかないでしょう」とたわしで体をこするまねをした。彼は笑い出した。それが風呂屋に泊まることを意味することから、納得したようでそれからは彼と打解けて話し合い大使館を後にした。

次の日、アルジェの中央郵便局に行った。イタリアのローマでチェックを受け取りたいと手紙をその場で英文でしたため,紛失証明書を同封して速達でニューヨークのシティーバンクに送った。それからは、N社の連絡だ。私が局内の電話の前で落ち着かない様子なのを見ていた現地の若い女性達が見かねて助けてくれた。その三人が変わりばんこでN社アルジェ事務所に電話してくれた。ちょうど昼休み中で日本人スタッフは不在だった。夕方まで待つことになった。

N社は大きな繁華街にあった。エライさん二人にまず自分がどこの誰であるかを伝え、信じてもらうことから始まった。日本への確認は24時間後、テレックスによる連絡待ちになる。そしてタカシちゃんは帰国中だということを知った。

夕暮れの時間になっていた。私はエライさんや若い日本人スタッフに促され車に乗った。どうやら食事に誘われたようだった。突然の闖入者であることからも車が止まってレストランに着いたことを悟って降車したとたん辞退したいと告げ、礼をいいその場で失礼することにした。厚意に甘えることがとっさの判断だったが、受けることが出来なかった。

翌朝、事務所を再訪し、総務セクションのエライさんに「今日、ローマに行きます」と告げ私は再びアルジェ駅からチュニジア行きの列車に飛び乗った。