2011年12月9日金曜日

放浪者 ペルシャにて


125日 30㌦両替 188

イラン国境

そろそろ急がなくてはいけない。アルジェ事件で心配しているだろうから家にポストカードを出さなくては。アフガニスタン・カブールには12月15日前に行きたい。金はどうしても受け取らなくてはこの先がおぼつかなし、祈るだけだ。


(記憶遥か)

トルコ側の国境はスムースな手続きでよかったが、イラン側はトラックが長蛇の列でいつ乗っているバスが走りだすかもわからない。国境はむき出しの荒野が見えるだけ。数珠つなぎの車両からは警笛が鳴るでもなく、交易の関所に慣れきった人々が休息の時間を楽しんでいる時間があった。

バスを降りて荒野を見渡していたら、車両の間にひげ面の大男がこれも猟犬の一種だと思うが大きな犬とおたがいジャンピングしながらたわむれていた。私は「その犬はあなたの犬なの?」と尋ねたら、彼は「アルゼンチンからずうっと一緒さ」と答えた。

私は遥か南半球のアルゼンチンから来ているジーパン姿のラフないでたちの大男が放浪者であり「私も同じ放浪者なのだ」と悟った。そしてその証拠を確かめるようにこれで何度目か、ほっぺたをつねった。



テヘラン・バス発着所

テヘランの大きなバス発着所からイスファハン行の夜行便に乗るまで小一時間の暇がある。私は好日山荘の山用の羽毛ジャケットが着慣れていたので、テヘランの夜の寒さはさほど感じなかった。でも、土くれのだだっぴろい駐車場の夜中の冷え込みようは地元のイラン人にはことのほか今夜は寒いと感じるようで、吐く息の白が場をおおいひげ面の男ばかりの群れがたき火に集まる一種異様な雰囲気があった。


イラン人には私の鮮やかなブルーの羽毛ジャケットとそのモコモコのスタイルが夜の闇に同化する彼らの土色の集団色に紅一点、異様に映えたのだろう。イラン人は一斉に私という色に魅かれるように目線を集中させ、面白いものをみつけたとばかり口々に呪文を唱えるような声をあげ、時に笑い声さえも発っしながら私に向かって集まってきた。そのおしくらまんじゅうは、奇妙な余興だった。


2011年9月10日土曜日

ヒュッテ・ツワイザアムカイトの快と怪  前章 さし向かいのさみしさ




うき がく


さし向かいのさみしさ

長野県の北、下水内群信濃町柏原に初めて来たのは高2の頃だった。50代前後になっていた父母がトランクにガラクタを詰め込み駅からタクシーに乗り、湖畔を望む小さな小屋にたどり着いた。僕は二人を林の中に追い立て、熊笹がそよぐ音に耳を傾け森林浴にひたった。小屋のテラスからは黒姫山が堂々とそびえ、夕方赤とんぼを追うと幼年期の林から妙高山ののびやかなすそ野が見えかくれした。それから45年以上たち、林は、うっそうとした森に成長し、それが赤松の倒木がすすんだことで、雑木林の若返りを迎えてきた。とはいえ、小屋の周りが”もののけ”が徘徊するようになるか、元の静けさに戻るかは二代目の当主次第。僕は傍観者のように小屋を見つめている。

信濃町といえば野尻湖が代表する。湖にマンモスが暴れまわっていたことを知ったのは、ずっと後でいつも東京からこの小屋に来るときには、野尻湖の砂間館の前の水辺から妙高を見上げるのがあいさつのようになっていた。湖畔を散策し、外人村(現・国際村)の教会横の階段を駆け上がると夏の季節店舗の商店めぐりが日課だった。周遊道路に戻ると坂下に佐藤工務所がある。佐藤工務所は小屋の管理でお世話になるだけでなく、よろず相談の情報収集拠点でもあった。

外人村と周囲の小屋が無人になる季節には、泥棒が荒らし周ったり、首つり自殺が発見された話など物騒なことばかりが記憶に残っている。どっこい熊がいたり,キジの親子がとびまわったり、冬の野うさぎの足跡は別荘地の趣が十分であることに変わりはない。

そして、小屋(ヒュッテ)の名であるドイツ語の”ツワイザアムカイト”。小屋ができた当時は母の名前から豊山荘としたが、「そりゃー、街のアパートと間違われる!」と茶化された父がこれぞ!と変えた。堀辰夫の短編”晩夏”の文中から引用したもので、父は亡くなった母への思いをその”さし向かいのさみしさ”にかけて伝えたかったのだろう。森閑とした中でテラスの椅子に向かい合い父は居てほしかった母に語りかけたかったのだ。「こんな人生には、そんなもんがあってほしいじゃーないか」

この短編に登場するホテルは小屋から湖に下る坂の途中にあった伊藤整の別荘になったようで、平凡社の夏の家と合わせ、この地域の目印だった。そして時は過ぎ、今は朽ちてしまった。

2011年8月28日日曜日

わたしの世界の七不思議 1

12月3日 ワン218㌦ 宿泊7.5トルコリラ
12月4日 ドウバヤズット 宿泊15トルコリラ

(記憶遥か)
ドウバヤズットにて。
旅の途中に地図を眺めるのは出立の時、一人で「さて、どこへ行こうか!?」と不確かな行先の答えを見つけるためにあった。逆に大勢で眺める地図は「そこだ、そこだ」「あそこがいい!」などと明快で、自信に満ちた旅人に返り咲く好機でもあった。5000㍍を越えるアララット山を宿の二階から見上げながら私はトルコ現地の二人のおじさんに「ASIA」地図をひろげぶつぶつと講釈をした。

「ご存知のことと思いますが、トルコには汎トルコの歴史があります。トルコのルーツはシベリア南方ともいわれ、西に移動しながらトルコの祖先は次々と土地に根を生やしながらこのトルコの地でさらなる覇権を夢見ました。東ヨーロッパからドイツへと多大な影響をトルコはもたらしました」

わたしは(中央アジアのトルコ系民族が身近な親戚ですよ)と気持ちの中ではトルコの現勢力に抑えておけばよかったが、地図を開くとついおおらかに口をすべらしてしまったのだった。スイスのKummerly &Frey社の地図を何冊か持参したが、なるほど使いやすかった。おじさんたちはASIA地図に見入り、唾を吐きながら身近な親戚のトルコ系民族に関心をよせ、大トルコの歴史にさらなる誇りをかんじているいるようだった。

その時のもう一つの私の関心は雪をかぶったアララット山にあった。(トルコもいいけど、あの山に旧約聖書にしるされたノアの方舟が発見されたんだ!)と世界の不思議に感心していた。

わたしの世界の七不思議は見た驚きにとどまっていた。つい昨日、ディアルバキルからバスで凍てついたワンに夜中に着き、体を丸くしながらひさしぶりに眠れない一夜を旅人宿で過ごした。朝、バス停の小屋に座ってドウバヤズット行の便を待っていた。すると、中学生ぐらいの背丈の少年が私の前で立ち止まり物乞いのように手を差し出した。

目の前の子は異常に顔が広く鼻元から尾根筋道を二つに広げ、要するに鼻孔が四つあり、必然的に両目が左右に離れていた。あ然と彼を見つめていたら、もう一人の子が彼の袖をひっぱり立ち去って往った。

チュニジアのチュニスでは思わず声を上げ周りをみわたした。そのゆるやかな街角の時間、カフェで老人たちがコーヒーを飲みながらおしゃべりをしていた。その中の体の大きな老人の横顔にひかれた。見ると手塚治虫の鉄腕アトムにでてくる「お茶の水博士」とも、火の鳥の「我王」のように太っていて、大きな鼻が蜂にさされてぶつぶつにはれあがったあのキャラクターが目の前にいたのだ。

2011年7月23日土曜日

公安とマオイストとツーリスト















12月1日 ディアルバキル マーマルホテル10トルコリラ
228㌦

(記憶遥か)
12月2日
 カイセリの街で松岡君と左右に分かれる前日、有り難いことに街で出会った兄弟のおかげで私にとってはアルジェリア以来のハマム(トルコ式風呂)に入ることができた。三助さんの垢すり効果でふやけてしまい、ディアルバキルに着いたときは、なぜかすっかり観光気分になっていた。バスを降りてさっそくツーリストインフォメーションセンターに行き、カウンターのクルドの青年に「クルド人に会いたくて来ました」などと言ってしまったから赤面ものだ。
クルド人とトルコのクルド民族政策は学生の頃、神田の岩波ホールで見た「路」(ユルマズ・ギュネイ監督)で初めて知った。その映画では母親を背負って岩だらけの荒野を歩く主人公や洞窟に鉄輪をはめられ入牢された主人公の姿を思い出す。ディアルバキルはクルド人が多く住むクルディスタンの拠点でもある。
  
そのディアルバキルの周辺で大地震が数か月前に発生した。インフォメイションセンターによると集落だろうかLiceに住むクルド人2000~3000人(6000人の情報も)が亡くなったという。被災者は3日かけディアルバキルにたどり着き集会を開いてトルコ政府に訴えた。政府は一か月で被災民の家を提供すると約束したがテント生活が続いているという。私がディアルバキルに来た時期は地震後の対策が進まず、政治的不安がふつふつとわきでている頃だった。
Lice現地は危険と聞き、私はディアルバキルの城郭の中をあてもなく歩き回っていた。中心部ではバザールやモルタルの商店が開いていて大変な人だかりだった。だが、なんとなく落ち着かない。お店が開いていても人の顔に活気が見られない。様子眺めの人が群がっているような、いつ車輪が暴走するかわからないという感じだった。
バッグひとつで城郭の外をうろつき少女の罵声をもらった私は、人だかりのキオスク商店のカウンター越しに安い赤ワインを注文した。そばに肘をかけ佇んでいた堂々とした体躯のコートを着た男が「日本人か?」と私に声をかけてきた。男はコートをチラッと開き、ニヤッと笑い警察であることをほのめかした。その男とは二日続いて同じ場所で会ったから、公安の監視の目がそこいらじゅうで目をひからせているといって過言ではない。治安の主導権は変わらない、といいたいのだろう。

 
宿のマーマルホテルのロビーも人だかりだった。雑多な旅行者の定宿といった雰囲気で、学生らしい若い人もいた。二人連れの質素な身なりの若者が廊下で声をかけてきた。「君は毛沢東の矛盾論実践論を知っているかい?」。突然なんていうことを・・・私は一瞬言葉が詰まった。「知っていますよ、私の好きな本です」。すると二人はぶつぶつと声を掛け合い、好意的に会釈をしてその場を離れた。政治的人間がトルコ中からここ辺地・ディアルバキルに集まっているのか、と思うとこの時、この地で見知ったことは観光しに来ました、などといえるものではなかった。

2011年6月5日日曜日

錆びたナイフをふりかざすクルドのハイジちゃん




(記憶遥か)
晴天の日、ディアルバキルの城郭に立つ。正面ゲイトは無残にも崩れ、レンガがなだれ落ち、こんもりと坂道をおおっていた。城郭の外の草原はといえば、冬の高原でペンペン草がはえている荒野の中庭のような風情だった。




崩れ落ちたレンガのくずを降りていくと一群の羊とその羊飼いの姿が迫ってきた。彼らはやせ細ったひつじ数頭をどこかに行かせるでもなく、しばしたむろする様子で、私を見つけた一人の少女が近づいてきた。


その少女はズボンに赤茶けたチェックのスカートをはき、すすけたシャツをまくり、手を振り上げた。その右手にナイフを持ち、それは多用途のお気に入りナイフというのではなく、パンに切れ目を入れるのにも難儀するような錆びた、どこかでくすねてきたような小さなナイフだった。その利かぬきな顔はうす汚れ「あんちゃん!金、出さないかい」。懇願するでもない脅しのポーズが堂に入ってる。


少女の目線はというと、左手をチラチラ見やり、その親指と人差し指をこすり、こすり、アラブ共通の札束を暗示して私の目線に訴えかけた。


私はここでかわいい!とでも感じ、ニヤッとすればよかったのだろうが、とっさにさわやかな天上の輝きにあいさつするすべを選んだ。少女に顔を近づけ「上をみあげてごらん!」と空を指さし合図を送った。


少女は私の目線に賭けて期待した。ぐるぐると体をゆっくりまわし、空をみつめ「何かあるんだ!」ときわめて素直にその場で円を描いた。私はその一時の少女の期待に反し、すでに5㍍以上城郭に戻っていた。


少女はだまされたと知って地団駄を踏んで悔しがった。私が別れのあいさつでこたえると少女は、年上の男の子が少女の怒りをしずめるように、ゆるく羽交い絞めにし、私に会釈する動作に納得がいかないというように武者震いした。二人の掛け合いはどちらが悪いという理屈をぶつけあうようにして高原を舞った。

2011年4月3日日曜日

アナトリア高原の一宿一飯





































11月28日 アクサライ~ネヴシェヒル間の農家 20トルコリラ

11月29日 カイセリ セマホテル15トルコリラ

11月30日 マラテヤ


(記憶遥か)
 夕方、アクサライの手前の間道に入り峠道を越えおよそ5㌔の登り坂。ヒッチハイクの車を待ちながら歩いていると、後ろからトラクターに乗った農夫が運転しながら「どこへ行くの?遅くなるとここらへんはオオカミが出るよ」と耳にツノを人差し指でこさえて話してくる。「わたしのところに泊まりなさい」と松岡君とわたしの二人にささやくようにいってくれた。ネヴシェヒルまでアンカラから一日の行程とふんでいたが、ありがたく泊まらせてもらうことにした。。


 丘上にに建つ石造りの一軒家しか暗がりで見えない。水源が近くにあるとおじさんが手振りで教えてくれたので集落や畑があり、ガソリンスタンドも幹線の道をもうすこしいけばあるらしい。ここら辺はさびれた寒村というわけでもなさそうだった。


 住まいは二階にあり奥さんと二人で暮らしていて、知らないうちに大勢やってきて歓迎してくれた。食事をして、スイカを食べ、なにをするでもなく自然にアッラーにお祈りする。南の方角を向いて手を組み膝を曲げ、でんぐりがえし風に手をつき腰をあげお祈りを真似する。そうじゃないよ、とさとされてなんだかんだイスラムの礼拝方式は難しい。一部始終をおしえてもらい、メッカの方角じゃなくていいんですね、などとひとりで納得するように話しかける。


 そして寝る時間になったら奥さんはいなくなってしまった。外に出て寒気にふれながら天上を見上げる。天上は満天の星どころか天の川が目の前に迫ってくるように広がって全面集密だ。さながら、夜のしじまのなんと饒舌なことでしょう。


11月21日


               アクサライ~ネヴシェヒル間40㌔の寒村


 おじさんと奥さんの二人。息子さんはイスタンブールに働きに出ているそうだ。友達やえらいさんが続々とやってきた。二階に上がりちんまりと座る。チャイ(紅茶)で歓迎。おじさん、僕ら二人、えらいさん、おじさんの友達とわたす。その間、子ども達(男子三人、女子三人)が来ていて二階がいっぱいになり併せて13人になる。大変な歓迎だ。


 食事は大きなお盆を囲んでおじさんと僕ら二人から始まる。粉チーズ+アイラン+くずもちのたれのような感じのスープ+薄くひきのばしたヌンを食べる。デザートは小ぶりなスイカ。大きなお盆の上で切ってくれる。翌朝は粉チーズ+ヌン+スイカ。お盆は直径1㍍ぐらい。暖をとるのはダルマストーブのみ。飲み水を入れるツボ(15㌢×50㌢)。ふとん置き場のふとんは座布団より厚めで正方形に近い。背布団はわらを束ね色彩豊かなシーツをまいている。壁のタペストリーも色彩豊かで床にはじゅうたんが敷きつめてある。


 おじさんは背にもたれながらスイカの種やたばこのカスをペッペ、ペッペと土間に捨てる。子ども達は率先してチャイの後片付け。食事の前後も子ども達はおとなしく僕ら二人を見ている。奥さん、子供たちは僕らの後に食べる。


 窓の戸口の物入れにはラジオや目覚まし時計、額入りの家族の写真が置いてある。灯りはランプにたよっている。寝る前に二人で折り鶴をおっても反応はきょとんとしている。お別れの時なぜか僕は毛糸の手袋を二つ持っていたので、風呂敷とジャガードの赤い手袋のどちらかを差し上げたいと手振りで伝えた。奥さんは恥じらうように手袋がいいと合図をおくったのでお土産にあげた。泊まり賃も払った。












2011年3月25日金曜日

パンと牛乳と白チーズ















































11月21日 イスタンブール ツーリストホテル8.5トルコリラ7㌦両替 253㌦


11月22日 ステューデントホステル7トルコリラ


11月24日 5㌦収入 258㌦


11月27日 アンカラ Yailホテル15トルコリラ


(記憶遥か)

 寒い朝だったが暖房が利いて心地よい寝起きだった。外は薄暗く雪降る中をあえて松岡君とあったかい食材を求め宿を出た。寒さで身をすくめ、二人でウロウロするのが寝ざめにはちょうどいい。なにを、というものでもない。このイスタンブール旧市街・スルタンアフメットの裏町の石畳の路地を歩く。雪にまみれ、足元のつっかけサンダルの音を聞く時間があり、路地をまがって早々とパンが焼けるにおいを嗅いだ。


 石窯がみえる小さな町のパン屋さんは朝の食材がそろっていた。フランスパンが木の平棒にのっかって次々と石窯からとびはねてきた。温かいフランスパン。それにガラスケースの白チーズと牛乳。松岡君と食材をかかえこの町一番の安宿にもどる。フランスパンを切って白チーズをはさみ一口食べて牛乳を飲む。その温かいカリッ、フワッとした噛みごこちとのど越しのヒンヤリ感が・・うまい。 


11月27日

 どうにか松岡君とアンカラに到着した。オランダ人のヴェラン君とギリシャ国境で走りこんできた南アフリカのジェニー君はイスタンブールからヒッチハイクで出発して大変だ。僕と松岡君は雪の影響を考えて長距離バスに乗ったのがさいわいした。それでもアンカラ50㌔手前の峠越えで自動車事故の渋滞にあって大変だった。


 そろそろトルコから東京までお金の算段と日数を考えなければと思う。いずれにしてもアテネで安い航空チケットをステューデントカードで買えたのでにホッとした。インド・カルカッタ~タイ・バンコク~台湾・台北~東京経由で手に入れた。なのに好奇心が優先してしまいうろうろしている。


 アルジェリア行きをめざしていたころ安宿で見知った日本人の旅行者とイスタンブールのホテルで再会した。彼の情報からトルコの暗部にあたるクルド人を知るのが面白いという話題にひかれた。そこでアルタリア高原のディアルバキルに行くことにした。松岡君はイスラエルに行くのでカイセリまで一緒に旅をすることになった。


 再会したクルド問題にくわしい彼は運が良かったと言っていた。僕がシリアに向かった後、日本人のバックパッカー達は大挙、陸路イラン、アフガニスタンに向かった。アフガニスタンのカブールでは生野菜を食べたのがいけなかったのか、ほとんどが肝炎にかかってしまい、多くは日本に強制帰還の体だったという。


 僕のうろつきはまだある。ネパールでトレッキングする計画だ。アテネであの登山家の話を一緒に聞いていた西ドイツの留学帰りの黒沢君と話があってしまい、2月9日にカトマンズのホテルで合流しようという話が決まっていた。


 明日は朝早く起きて、天気が心配だがカイセリへヒッチハイクで行きたい。12月にはイラン。アフガニスタンのカブールでは落とした残りのチェックのドル収得がある。うまくいってもらわないとまづいことになる。

 今日のアンカラ民族博物館はよかった。館内に入ると照明に映えた御影石がきらびやかで、ガラスケースのなかの文物、鉄のヒッタイト文化の神々しさやセルジュクトルコと現代トルコの民衆が着る織物の柄行の豊かさに感激した。この博物館はそのまま日本に来てほしいほどの素晴らしさだった。


 それにしてもこの頃は、一人の女性がばくぜんだが恋しくなる。「今度はあなたと一緒に旅をしたい」とか、こう、づうづうしく思うのも旅の必然かなぁと思う。それと宗教に関する関心がますます強くなってきた。どういうことだろう。これからアジアに向かうにあたり考えてしまう。


      *大きな国の小さな町*


寒い11月 外を見上げれば冬の星空 


わたしはここにいる 大きな国の小さな町


大きく開かれた窓から町の灯がみえる


遠い山のすみずみまで築かれた家に赤い灯がともる


大きなビルディングに赤い灯がともる


雪はまた消えれば消えるほど


町の活気と冬の寒さを衿元にきずかせる

石炭のばい煙はわるくない 大きな国の小さな町
















2011年3月5日土曜日

ヒッチハイクロードの出会い



11月19日 テッサロニキ

11月20日 クサンティ
(記憶遥か)
アテネからトルコ国境の旅は高速道路のヒッチハイクがいいと口コミで伝わっていた。そこで路線バスで高速入口まで行き、運よく声をかけてくれたオランダの青年と乗用車に乗り込んだ。今日はテッサロニキ(サロニカ)あたりまで行きたいと勝手に決めていた。オランダの青年は乗せてくれたギリシャの中年の運転手さんと盛んにドイツ語で話している。合間に「運転手さんはテッサロニキに行くつもりだったらしいが、体調が悪くて難しそうだ」と言った。そして「あなたはどうする?」と聞いてくるので「テッサロニキには行きたいけど、しかたないね」と答えたらしばらくして又、同じ質問をしてきた。

私は今日は無理かと思っていたら、運転手さんが途中で食事をしたいらしくパーキングエリアに入り食事をおごってくれた。私と彼はていねいにお礼をいったら、その運転手さんはどうやら僕たちの様子を確かめたかったようだった。オランダの青年は、その運転手さんが長く西ドイツに出稼ぎに行っていて久しぶりに母国のギリシャに帰ってきたことを小声で教えてくれた。運転手さんのおかげで目的地のテッサロニキに晩くに着くことができた。

テッサロニキに着き、街中で車を降り運転手さんにお礼を言って、私はオランダの青年とも別れた。小雨の中を歩いていたが街灯が薄暗くホテルの所在が皆目わからない。仕方がないので門構えがしっかりした建物が見えたので構内に入った。屋根のある渡り廊下をみつけたので、ちょうどいいと思いコンクリートの上に傘を開いて寝ることにした。

翌朝、誰かが寝ている私の肩をゆすった。警備員だろうか。朝日がさんさんと注ぎ、今日は天気がよさそうだ。構内をでるとき振り返ったら、昨日はどうやら図書館をねぐらにしたようだった。東に延びる道路をひたすら歩いていると大型トラックが止まってくれた。ギリシャの運転手さんはいい人だった。乗って5分もしないうちに昨日のオランダの青年が道端で手をあげていた。彼をみつけた私が大声で手を振り運転手さんにおしえたら彼も乗せてくれた。

クサンティを過ぎたあたりでトラックと別れまた歩き出した。オランダの青年はのどが渇いたらしく、近くにお店を見つけ「お湯をもらってくるよ」といって水筒を片手に路地のお店に入っていった。しばらくして彼が追いついて水筒を私にさしだした。私は彼の好意をありがたくいただいた。歩きだしたら彼が「あっ、お湯でなくて・・・」といったので私は「おいしかったよ」といった。そこらへんが習慣の違いなのだろうか、私にはありがたい水だった。

ポカポカ陽気になってきた。僕たちは道路沿いの公園で一休みすることにした。彼はオランダで体育の先生をしていた22歳のヴェラン君と自己紹介した。彼は退職して旅に出てギリシャのキプロスの果樹園でオリーブもぎの一仕事をしていて、そのがっちりした体躯をつつむ黒いスーツはよくみると船乗りの服のようで「別れるとき親方からもらったんだ」といった。ショルダーバック一つだし、軽装な旅なのに私は感心した。私は彼に「あなたはドイツ語やギリシャ語も話すんだね」と質問すると「オランダは小さい国で就職先が少ないので、外国語をしゃべるようにしないとね」と若者の就職事情を教えてくれた。

公園には何でも興味ありの子供がいた。地元の小学生らしい子が盛んに「日本人・カラテ」「日本人・カラテ」とはやしたてながら寄ってきた。私はカラテを否定してその子に「日本人・スモウ」「日本人・スモウ」とからかうように返事をするとわからない、というように首をかしげたので私は足で土俵を描いた。土俵に勇躍あがった私はしこを踏み、塩をまき一人相撲をやりだした。するとその子と一緒にヴェラン君もニコニコしだした。私はその子に土俵に上がるように手招きし一勝負した。その子は体を組むというのがわからないらしく、土俵をでてはいけないというのもわからない。私は、困った困ったと首をかしげているうちにヴェラン君も加わり二人が同時に私を土俵から押し出して、笑いのうちにその小劇は終わった。

国境近くに来た。建物の中にヴェラン君と入ったら日本人のバックパッカーが一人座っていた。彼は自己紹介を英語で、自分のニックネームもいうので私はすごいベテランの旅行者だなぁと思った。それに私なら日本語では「君は」というところを彼は「あなたは」といいだすので紳士的なのに面食らった。彼がながの旅の空で相棒となる松岡君との出会いだった。






2011年2月26日土曜日

他人(ひと)のふんどし



11月13日~15日 ミコノス島


11月16日 アテネ


11月18日


(記憶遥か)

 夕方、小脇に五枚の絵をかかえアテネの中心街にでかけた。絵はカナダのトロント大学に留学し、日本に帰る途中の学生がホテルで描き,置き土産にした肖像画だった。その学生はパスポートを盗まれた口で、予定が立つまでの長期滞在だった。絵描き作業はキャンバスにとどまらずジージャンのバックプリントにドラゴンの絵を描く凝りようで、滞在していた西洋人が事後了解のようにしてジージャンを着て市内観光に行くのでいささかおかんむりだった。



 しまいには二日続きだといって「日本人をばかにしているんだ、やつらは」とふてセリフをはき、カナダの留学時の屈折した気持ちをあらわにする怒りようだった。そのせいか4号のキャンバス地に描いた絵はシニカルなアメリカ人、フランス人、アラブ人、カナダ人・・の作品だった。



 その絵がベッドの横になにげなく立てかけてあった。ユースホテルには昨日、日本人の旅行者がいっせいに陸路をトルコに向け出発してしまい、私だけが残っていた。捨てられるのは惜しいと思いかってにもらい受けることにした。



 中心街でちいさなロータリーをみつけた。この日もデモの影響か車が少ない。石柱に絵を並べたが一人も客が来ない。一番の頼みである観光客が少ない。立ちんぼうも小一時間もするとあきた。売る場所を決めるのに時間がかかってしまい店の灯りばかりが目立ち、暗がりでの商売をあきらめた。



 建物を巡りながらの帰り道、運がいいことにこうこうと灯りがついた一軒の画廊がまだ店を開いているのを見つけた。店の中に入り店主とおぼしきギリシャ人に絵を掲げ買ってくれないかと伝えた。彼は好意的で買う気になっていた。まずは値決めの商談で合計が日本円で5,000円になることが分かった。了解したら絵にサインしろという。私はキャンバス地の右端にサインしようとしたが、グチャグチャと書くのもきがひけて、後ろ側の真ん中に小さくサインした。店主はけげんそうな顔をしたが無視して貰うものをもらって店を引き上げた。



 ホテルに帰りカウンターごしに佇んでいたら一人の日本人が声をかけてきた。昨日、皆といっしょにバスでトルコに行ったはずの同世代の名の知れた登山家だった。彼はホテルで初めて会ったとき、いきなりアルバムを広げ写真を解説しだした変わった人だった。その時の話がうらやましい。アテネに着いてアクロポリスの丘に登り遺跡を見物していたら、地元の女性から声をかけられたという。話の中で彼女の旦那さんが船乗りで長期不在だということがわかり、日本人に安心感があったのか彼女に誘われて一週間家に泊まらせてもらった、と意気揚々だった。



 アテネ妻と別れボーッとしていたのか彼はパスポートを忘れてきたのに国境近くで気づき、戻ってきたのだった。


 彼も私もいい目にあった。だが、私は翌年日本に戻り、その年新聞報道によれば彼はイタリアアルプスで滑落死した。




2011年2月14日月曜日

デモと共にカランコロン


11月10日 アテネ
220㌦両替 270ドル

11月11日
10㌦両替 260㌦


(記憶遥か)
 工事現場のねぐらを後に、私は雪の止んだ早朝のアテネの町を歩きだした。小春日和の散歩のように、アテネのきれいで、落ち着いた街並みやウインドーごしを目をみはりながら歩いた。幅の広いフラットな歩道に町のつくりをみる気持ちのいい朝の散策だった。しばらくするとユースホテルを見つけた。ここまで来ると自分の昨日のねぐらが中心街の目の先だったことがわかった。アテネは静かな観光地だ、とかってに思ってしまった。


 実際はそうではなかった、そうではあるが、そうではない部分がわかってきた。ユースホテルの大部屋には日本人の若者が集まっていた。情報交換しているうちに日本人が狙われていることが分かった。ホテルのカウンターに預けたパスポートが日本人の分だけ盗まれていた。貧乏旅行者ではなくユーロパスをつかいながらヨーロッパを旅行する者が被害の大半だった。それは政治がらみで流用されているのではないかとか、日本の赤軍派がからんでいるとか、ギリシャの治安悪化にまで話がおよび深刻だった。


11月17日(金)
 1973年11月17日、民主化を要求し、アカデミー・スクール・ファイン・アートを占拠した学生に対し軍は戦車と機関銃をもって応え34名の学生が死んだ、という。今日、ファインアートの殺りく現場に飾られたバラの花輪には学生の死を悼む人々のメッセージが小雨の中にうかんでいた。人々は花をたむけ、ギリシャ音楽が流れアメリカ、軍政に抗議の意志を示している。デモの波は大学生といわず高校生たち若い世代や市民が続々とこの現場に集結していた。薄暗くなった夕方になってもそのデモの波は整然と続いていた。これがギリシャのアテネの一日だ。


 アテネの中心街を僕はチュニジアで買った木製のサンダルをつっかけ歩いていた。カランコロン。寒くなっても既に靴下は用無しで、北アフリカの旅以来、素足にバスケットシューズのいでたちが自分の旅のスタイルになっていた。それが履き心地のいい木製サンダルの気安さに慣れきってしまい、船のデッキでも声高にサンダルで歩きとおした。この日、中心街の散歩なのに格好も気にせず、デモ行進を支援するように石畳とコンクリートの道を木製サンダルの音を響かせながら時間をかけ歩いた。

2011年2月5日土曜日

アテネはしんしんと雪の中


11月6日 イタリア ローマ
30㌦両替 530㌦

11月7日 ブリンディシ
20㌦両替 510㌦

11月8日 ギリシャ パトラス
20㌦両替 490㌦


(記憶遥か)

パトラスの街灯の灯りが印象に残る波止場に近いバス停からアテネに乗り込む。もう、アラブの喧騒とはしばらくおさらばと感じるだけ気持ちが落ち着く。不安と刺激がうすくなりホッとした気持ちでヨーロッパの街に足を踏み入れる一人旅。これも旅の仕方だ。

アテネには午前0時頃の到着。ブリンディシからパトラス間のフェリーでは、若者ばかりのバックパッカーの喧騒をしり目に三等の大部屋の椅子の下にもぐりこみ十分寝たつもりだった。でも、疲れがたまっていてパトラス、アテネ間も寝ずっぱりだった。そして、アテネは雪の中だった。

アテネ着の停留場が市街のどこらへんなのか、地図がなくてもバスの到着する場所はどこなのかわかるはずなのに思考がはたらかない。寝ぼけまなこのアテネ到着は、低層の建物がまっすぐに伸びた幅広い道路の明るい街灯とともに浮き上がり、空の漆黒との対照が視界にやきついた。

しんしんと降る雪の静けさに任せてしまうことになった。ホテルを探す気がしない。道路際に建設中の家屋が目に入った。何度目かの野宿をすることに決めた。

柵の扉をあけ、コンクリート造りの建物に近づく。すぐに木の作業台を見つけた。台の下で寝るには十分なスペースだ。寝床のガラクタを手で掃き新聞紙を敷き、封筒状のシーツとハーフシュラフに腹巻をしてもぐりこむ。モコモコのダウンジャケットを上半身に巻き付け居心地を確認する。

目を閉じる前に気が付いた。今日は27歳の誕生日だ。

さて、どうするか。よし、日本に帰ろう。帰ったらなんでもやろう。怖いものなしだし、食べるためには何でもやろう。そう、決めてわたしは目を閉じた。

2011年1月1日土曜日

ノンフィクション冒険譚(2008、2009,2010)

(アフガニスタン・カブール渓谷の石仏、






 19751229) (ネパール・ポカラ800m郊外ペワ湖畔からマチャプチャレ6,973m、19760206)  






















                                          うき がく




 目次


1975年の青春
20081026 シルクロードに恋してます  1
20081108 ソ連がソ連であったとき  2

20081115 アイリーン、君に逢いたい   3
20081124 辺境旅に幸多かれ       4
20090621 イスタンブール 私文書偽造作戦   5
20090704 アンカラ ヒッピー宿なんか知らない   6
20090806 イスタンブール 安宿の猛者       7
20090806 カルタルの汗と匂い            8
20090815 シリア アレッポ 人間HASSANの言葉  9
20090906 シリア パルミラ 指鉄砲殺傷未遂事件 10
20091003 シリア ダマスカス フセインはどこのフセイン?  11
20091011 不可解な国 ヨルダン     12     
        北アフリカ急ぎ旅
20091025 ルクソール プロペラ機尻びらきの搭乗事情   13
20091101 アレクサンドリア イスラムの教え   14
20091128 リビア チュニジア国境 申告所持金 虚偽疑いの顛末   15
20091212 アルジェリア 夜行列車 寝ぼけてサイフをトイレに落とした事件   16
20091220 アルジェリア 落とした事件Ⅱ アルジェのおちびさん 君はどこにいるの? 17
20101226 それがローマだ   18






新疆旅 キジル千仏佛洞ピクニック

20081201 キジル(1)~終章(10)   1
20081210 クチャの北には千佛洞があり 2  
20081214 無謀な旅はわれらが誉れ   3
20081220 旅力は無言実行        4
20081228 もとよりヒッチハイクは高くつく   5
20090104 党政治学校は悪路を好むのだ   6
20090114 冒険ごっこはこれだからやめられない   7
20090202 キジルの落書きは中国を語る     8
20090307 「あなたはどこから来たのですか」  9
20090322 さらば、ウイグル 漢族のバス連  10






新疆旅Ⅱ バインブルク草原を越えて
                            中国 天山横断~路線バスの旅
20100331 バインブルク草原を越えて 天山(1)~終章(5)
20100426 天山越えは旅疲れを友として      2
20100531 電信柱とジグザグ山に登る     3
20101010 天山は草原の上にあり     4
20101130 馬乳酒はもてなしの心     5



青春18キップ的 すすめ

20090426 09春 東海道 京都   1
20090517 09春 岡山 鳥取 兵庫   2
20090718 09夏 加茂郡坂祝(さかほぎ)   3
20091110 09秋  森の仕事 森の幸            諏訪郡富士見町沢入山 1   4
20100605 10春        〃       2   5
20100731 10夏 スーパーカミオカンデ探検行は尻むけ覚悟のバテバテ旅            
            飛騨市神岡町           6
20101107 10秋  森の仕事 森の幸    諏訪郡富士見町沢入山 3   7