2011年9月10日土曜日

ヒュッテ・ツワイザアムカイトの快と怪  前章 さし向かいのさみしさ




うき がく


さし向かいのさみしさ

長野県の北、下水内群信濃町柏原に初めて来たのは高2の頃だった。50代前後になっていた父母がトランクにガラクタを詰め込み駅からタクシーに乗り、湖畔を望む小さな小屋にたどり着いた。僕は二人を林の中に追い立て、熊笹がそよぐ音に耳を傾け森林浴にひたった。小屋のテラスからは黒姫山が堂々とそびえ、夕方赤とんぼを追うと幼年期の林から妙高山ののびやかなすそ野が見えかくれした。それから45年以上たち、林は、うっそうとした森に成長し、それが赤松の倒木がすすんだことで、雑木林の若返りを迎えてきた。とはいえ、小屋の周りが”もののけ”が徘徊するようになるか、元の静けさに戻るかは二代目の当主次第。僕は傍観者のように小屋を見つめている。

信濃町といえば野尻湖が代表する。湖にマンモスが暴れまわっていたことを知ったのは、ずっと後でいつも東京からこの小屋に来るときには、野尻湖の砂間館の前の水辺から妙高を見上げるのがあいさつのようになっていた。湖畔を散策し、外人村(現・国際村)の教会横の階段を駆け上がると夏の季節店舗の商店めぐりが日課だった。周遊道路に戻ると坂下に佐藤工務所がある。佐藤工務所は小屋の管理でお世話になるだけでなく、よろず相談の情報収集拠点でもあった。

外人村と周囲の小屋が無人になる季節には、泥棒が荒らし周ったり、首つり自殺が発見された話など物騒なことばかりが記憶に残っている。どっこい熊がいたり,キジの親子がとびまわったり、冬の野うさぎの足跡は別荘地の趣が十分であることに変わりはない。

そして、小屋(ヒュッテ)の名であるドイツ語の”ツワイザアムカイト”。小屋ができた当時は母の名前から豊山荘としたが、「そりゃー、街のアパートと間違われる!」と茶化された父がこれぞ!と変えた。堀辰夫の短編”晩夏”の文中から引用したもので、父は亡くなった母への思いをその”さし向かいのさみしさ”にかけて伝えたかったのだろう。森閑とした中でテラスの椅子に向かい合い父は居てほしかった母に語りかけたかったのだ。「こんな人生には、そんなもんがあってほしいじゃーないか」

この短編に登場するホテルは小屋から湖に下る坂の途中にあった伊藤整の別荘になったようで、平凡社の夏の家と合わせ、この地域の目印だった。そして時は過ぎ、今は朽ちてしまった。