2009年10月25日日曜日

北アフリカ急ぎ旅 ルクソール, プロペラ機・尻びらきの搭乗事情







10月9日

宿にはいつも淀んだ空気が満ちている
いつからか、旅人は気づいた

紅茶の甘さにひたる時間も
主人があいさつする朝の声も
ここかしこ疲れを重ねる

いつからか宿の住人は変わり
テラスに寄りかかる人の影は
たそがれ時間がまた来たことを気づかせる

宿はくつろぎの場でもあった
でも変わらぬ淀みが紅茶のレモンの香りを消してしまう

気づくことが遅すぎたのか
日一日と空気と住人は淀みの中に浸ってしまう
始まりの続きはどこまでか 明日 明後日

10月10日
エジプト着 カイロ
50ドル換金 1212ドル

10月13日 ルクソール
50ドル換金 1162ドル

10月14日
30ドル換金 1132ドル

10月15日 カイロ

(記憶遥か)
ルクソールはスーダンから上がってきた旅人のオアシスだ。しかし私には、アフリカ深部を避けた北アフリカ急ぎ旅の寄り道に過ぎない。

南から上がってきた者にとってルクソールは地中海のにおいを嗅ぐことができるアフリカ大陸の脱出口になる。宿に日本の同世代の若者が伏せていた。マラリアに罹っているらしい。早く医者に診てもらわなくてはいけない。私はその偶然の機会に遭遇し友をカイロに搬送することにした。

なぜか、時間の観念が薄れていた。友の体調に任せ、傍観する悪しき旅の思考が支配したからだろう。前日に買ったカイロ行きのチケットを無駄にはできない。リキシャ(人力車)に乗り込み空港へ向かう。時間は間に合っているはずだった。少なくともルーズなエジプト時間に遅れは採っていないはずだった。
 飛行場の搭乗カウンターからは滑走路が目の前に広がっていた。小さな飛行場は機敏な動きができる。ルクソールはエジプトタイムとは違っていた。すでに搭乗予定のプロペラ機は機首を助走路上において滑走路に向かっていた。あわてた係官がレシーバーを取り、もう一人がガラス扉を開いて滑走路に走るよう誘導してくれた。

それからのランニングの長いこと。荷物が二つに、フラフラの友の肩を担ぎとにかく二人で叫ぶより、走りに走った。必死な形相、恥も外聞もないとはこのことだ。

離陸体勢に入っていたプロペラ機が待機態勢に変わり尾部が搾り出すようにゆっくり開き、パーサーが機の中から手招きし僕らを迎えてくれた。


カイロに就いて国立病院に直行。エジプトでは既に慣例になっているように医者関係者が友の収容に同意し私の義務は終わった。受け入れ体制がガイドブック通りなのには驚いた。

カイロのユースホテルに泊まり、ギザを代表に高名なカイロの見学コースを巡っての数日後。ルクソールの友がドミトリーの二段ベッドに横になっているのを発見した。「金をとられたくない」。ただそれだけが、強行退院の理由だった。病院側のノーマネーは友には通用しない。アフリカの旅は一瞬の油断もゆるさないという友の覚悟だった。
*たびたび登場するガイドブックは文庫本「アジアを歩く」(絶版)

2009年10月11日日曜日

不可解な国ヨルダン




10月2日 陸路ヨルダン、アンマン着

10月3日
70ドル換金 1272ドル

10月4日
ヨルダンに来てから調子がよくない。下痢と疲労で歩いているとフラフラする。気が緩んでいるようだ。10日にエジプトへ向かう。フライトに65ドルほどの金がかかった。それも仕方がない。年齢で料金設定が違うという。ステューデント・カードはまがい物扱いかもしれない。あてにならない。

ヨルダンはシリアに比べ落ち着いている。長男と三男坊ぐらい。王政と社会主義政党の違いというか、金持ち国と貧乏国の違い・・いや、いやどこも発展途上の国だ。

10月6日 ジェラシエ
10月7日 ペトラ  それぞれ日帰りの旅。

10月8日 10ドル換金 1262ドル

10月10日50ドル換金 1212ドル
エジプトへ

(記憶遥か)
 あのロレンスで惹きつけたアカバにむかうヨルダンの南北縦断路。その国道16号線のT字路から西にペトラ遺跡まで20キロあまりかかる。行きは旅行者を観察してツーリング先を思案するインテリ・タクシードライバーの力で観光慣れしていないベドウィンテントに招かれチャイ(紅茶)をご馳走になり、その寄り道で時間がなくなりエル・カズネ(宝物殿)の観光見物は正面前でお預けになった。帰りは急速に迫る夕闇に追われながら、ようやくT字路に戻り私には高額の交通費を払う始末の悪い一日を過ごしてしまった。

 さて、このT字路は基点ではあるが岩ばかりで何もない。帰りのバスがない。仕方がないのでヒッチハイクすることにした。闇が迫る中の始めてのヒッチハイク。アンマンに向かうメインの道路だけに走行車数は結構多い。ありがたいことにしばらくすると乗用車が50メートル先に止まった。なにせ、由に100キロを超えるスピードで車が走っていく。

 20代の男性ドライバーの親切で車の後席に乗る幸運に恵まれた。ところが、前がめちゃくちゃ。フロントガラスがひび割れ拳骨大の穴が開いている。彼は強引に左足でフロントのひび割れ部を蹴飛ばした。ガラスが粉々になりピューピュー風を受けながら、一路アンマンに向かった。これ、すべて運転しながらの超人ぶりにあきれそして確信した。路傍の砂塵に負けない当たり前の振る舞いだということを。

 アンマンの街中でお礼をいいホテルに戻った。するとホテルのフロントマネジャーが「明朝、出てってくれ」という。飛行機のキャンセルまがいの料金吊り上げといい、ホテルマンの拒否と続いた。日本の赤軍派の活動がシビアにヨルダンの公安を動かしたのだろうか。不可解な国だ、ヨルダンは。

2009年10月3日土曜日

シリア ダマスカス, フセインはどこのフセイン?


10月1日 シリア ダマスカス
50ドル換金 1382ドル

 ダマスカスは喧騒。お隣のイスラエルとはドンドン、パチパチ。昨夜の高射砲の音はすごかった。今まで聴いたことのない音響。響いている。すさまじい。でも、夜の静寂下の大音響に比べ朝からにぎやかな首都の活気が対照的。商売が始まり、終わってからの暗闇は戦争の構え。異常が正常と感じるその典型が戦争下の国の現実だ。


 ホテルは一階の天井が高く、建物そのものがコンクリートのがっしりしたたたずまい。   ロビーのカウンターで「おはようございます」と英語で今日の宿泊の予約をする。カウンター周りには定宿の泊り客が気安く集っていた。僕を日本人と見て皆、愛想がいい。一人がアラビア語でおはようございます、といった。するとその周りから僕に向かってにこやかに「おはようございます」。僕もそのぐらいしゃべらなくては、と大きな声で真似る。「サバーフヘール」。


一人が違うというように正確なアラブの発音で繰り返す。サバは跳ねるようにサバ。フは小さく、火を吹き消すように短くフ。ヘールはハイヒールではなく、巻き舌でへールルル・・という風に。三、四回繰り返し「サバーフヘール」は合格。
翌朝、同じ常連客がまた、受付カウンターでたむろしていた。僕はアラビア語で「サバーフヘール」。すると連中はビックリしたように一斉に「サバーフヘール」と応えベラベラ、ベラベラしゃべりだした。


 なんとなく仲良くなったような・・そのうちまじめそうなビジネスマン風のシリア人らしき20代のがっちりした180センチ男が、今日の予定を僕に尋ね、観光見物に付き合ってくれると英語で言った。ありがたいのでお礼をいうと、近くの名跡につれてってくれることになった。


 彼に連れられ行ったのはウマイヤド・モスクだった。ガイドブック通りのコースに乗った名跡。彼はイラク人だった。寺院に入ると盛んに話しかけてきた。よくわからない解説より、時々気になる言葉に耳を慣らした。アラブでは結婚するのに金がかかり、一夫多妻で・・フセインの話に入ると、暗殺の話や歴史的なうんちくをベラベラとしゃべるのでまったくわからない。王であるとか何とか。
 そのうち僕の知っているフセインは(イラクのサダム・フセインであってこのモスクにゆかりのあるフセインの話なのかどうか・・アアそうだ!僕の知っているフセインはトルコのカルタルで世話になったフセイン・オズトップなんだよ!)といいたくなった。そのフセインはカルタルでもあの人、この人がフセインであって、わけがわからなかったので、そのイラク人のいう輪をかけたフセインがさらにわからなくなった。


 彼は僕の体に近すぎの距離でしゃべっていた。そのうち下げていた僕の手の平を握ってきた。なんとなく、いやな感じだなァと思っていたのでその手を抜いて、僕は背筋を伸ばし両腕を胸に組み上を見ながらウン、ウンとゆっくり彼の言っていたことがわかっていたようにうなずきながら・・・ゆっくりモスクの観光コースに紛れ込んだ。


 この彼の怪しい行為に僕が態度を変えたことで、彼はそれ以後あまりしゃべらなくなり、ホテルに戻ってから会うことはなかった。
それ以来、イラク人はというと(記憶遥か)・・・べっとり汗をかいた分厚い手の平を思い出す。(200910)

 午後からエジプト大使館にビザをもらいに行った。青年海外協力隊の男性隊員にあった。シリアで一年半、器械体操を教えているという。すっかり地元になじんだその顔つき。毎日いかに食い、住み、進むかを仕事にする旅行者にはまぶしい、うらやましいと思った。
戒めは、腹を冷やさないこと、生水を飲まないこと。