2009年1月14日水曜日

冒険ごっこは、これだからやめられない


 キジル千佛洞は入門ゲートを境に管理されていた。ゲートが開きバスは緑の樹園のじゃり道を周遊し止まった。ウイグルの一隊は車中のダンボール箱を運び出していた。足の踏み場もない車中の事情がようやくわかった。大量に積み込まれていたのは酒類だった。

 息苦しいバスから開放される間もなく、今度は僕たちが見学者のカオを取り戻す時間になった。
新疆・天山の裾野に拓くキジルは敦煌・龍門・雲崗と並ぶ中国四大石窟の一つで、三世紀から十世紀頃に造営されたという。約二キロの範囲に約三百の石窟と壁画が残存する。永年にわたる自然劣化と盗掘や異教徒、ここではイスラムや日本を含めた外国探検隊から受けた破壊によって荒廃が進み、それは現代に引き継がれていた。

 石造りの無骨な二階建ての建物が樹木の間から現れた。その建物のテラスの上には御影石の石碑が立っていた。千佛洞修復保存協力会と刻まれたその石碑は日本と中国の民間交流会が中心になったキジル石窟の修復のために設立した基金の記念碑だった。ところが、この記念碑にふさわしい遠来の客、多分外国人観光客を歓待する接客所になるはずの館が荒れ果てていた。

 扉が開いたままの荒れた館内に入った。二階に駆け上がる。階段上の部屋の扉が封印されていた。「九十・三・二十」の印は最近のこと。天安門事件で日本との関係が悪化し、観光客激減の余波は西域の地まで及んでいることがわかる。

 接待所の外でワンを見つけ手を振る。宿探しに行った相棒をよそに僕とワンはお土産屋で目ざとくビールを見つけ、ウズベク人に負けじとピクニック気分で小休止することにした。

 戻ってきた相棒によると、宿が見つからず日帰り旅になりそうだ、という。しばらくは、レンガ造りの家を見つければ人探しから、宿探しのローラー作戦を始めた。それが徒労だと悟った僕たちは、千佛洞の本格的な見学に気持ちを切り替えた。既に北京時間の四時を回っていた。

 バスに同乗していた女の子が忙しそうに働いていた。彼女は商売のために来ている串焼き屋さんだった。開店準備に忙しそうに働いている。重い荷物はお土産屋の娘さんに預け僕らはお互い合図を送るようにして個人行動に切り替えた。僕はまず、谷間の奥に走った。

 木々の間を抜けると砂岩の崖が迫り小さな渓谷にたどり着いた。そこには水音を響かせるかなりの水量を集めたソグド溝の“涙の泉”という名の滝が流れ落ちていた。チャール・ダク山を望む崖の下は、土砂が扇状形に堆積した扇頂部になっていた。天山から流れた水が砂漠にもぐり、伏流水になって再び現れた。水は滝になって崖から本流のムザルト河に流れ落ち、堆積した扇端の肥沃な土壌に樹木がおいしげっている。

 この緑のオアシスの後背になる崖はソグド溝を境に二つの教区を形成していた。石窟は仏教壁画を描くためだけではない。僧侶の生活の用に充てた庵であり、礼拝の場、断食の場等宗教活動のみならず時に羊小屋、牢屋にもなり、かまどを備え貯蔵庫にもなった。石窟は人の気配が共存する場だった。

 僕は滝から目を崖に移し、入り口を木戸で閉ざした石窟を左右に見渡した。石窟は修復が進んでいたが、転々と木戸で閉ざされそれぞれが独立し、窟にたどり着くルートは外からは限られていた。 僕は土砂が積もった扇頂に駆け上がり天山の水が目の前を滴り落ちる滝つぼを冷気の中で見つめた。

 再びおぼつかない頂の足場から駆け下った。そして、ソグト溝の帰り道を振り返ると、木陰の合間から降りてくる見学人の中にビデオ機材をもった西欧人二人を見つけた。彼らをやり過ごし、同じ類の外国人がいる、と一人合点した。

 落ち合った場所で、僕たちは成果を話し合った。相棒は足場が崩れた危険な木の階段を登り木戸越しに石窟の壁画を撮影し、ワンは木戸の鍵に閉口し、下から石窟を見渡すにとどめたと一人難儀していた。相棒は石窟の下の窟跡で散在した骨を見つけた。脆い砂岩の砂山に隠れているであろう石窟の発掘に興味を示した。ちょうど、僕たちが立っている場所が崖の土砂を積み上げた場所だっただけに、想像力は増すばかりだった。

 僕たちは西に行動範囲を広げた。黄色い柵の上部がペンキ色も鮮やかなコンクリート回廊の石窟の保護地区に足を踏み入れた。ところが人一人出会えず、石窟の扉は錠前で閉座されていた。

 僕は、真新しい手すりに佇んだ。ムザルト川の対岸の褶曲した岩壁が視界に広がり、眼下にはポプラの樹林が炎天の熱を冷やすようにすくっとそびえていた。
僕は回廊を上下し柵から身を乗り出し衝動的に叫んだ。するとカメラを首に提げた漢族の中年男女が何事かと見上げた。下からはカラフルな民族服を着た子供たちが階段を昇ってきた。ここまでの収穫はウズベクの子供たちの笑顔だった。石窟の扉を開け壁画を見る期待感が高まった。

2009年1月4日日曜日

党政治学校は悪路を好むのだ

僕らは最悪の渦中にいた。
「学校が何しに、こんなところに」
相棒「教職員と一緒にピクニックに来たみたいよ」
荒削りな学校のあの先生、あの職員のパワーには度肝を抜かれていただけに、その正体露見は意外といわざるを得なかった。

見物時間は終わった。再びバスの時間だ。工事現場が観光コースになったダムと町並みに別れを告げ、道は快適な舗装路に変わった。そして、シャベルカーで削ったままの未舗装のくねくね路にさしかかり、バスは強引に突っ走った。デコボコのジャリ道に揺られ渓谷の谷道を探すようにバスは急勾配に差し掛かった。運転手の必死なギアチェンジの恢もなくエンジンが止まった。

その時の車内は目的地に向かう勢いで沸きかえっていた。その中で一人浮いていた運転手が硬いギアを願うようにローに入れた。両手でツルツルの頭を抱え、はたき、次には両手でギアに力を込めエンジン始動に集中する。二度三度繰り返すその必死な努力が実った。バスの発車が車内に沸き起こる拍手で迎えられた時、車のうなり声は再び祭りのリズムに乗った。

しばらくすると、赤ペンキで板書したキジル石窟の案内看板をバスは見つけ、ゴビの中を南に進んだ。 このゴビの道は干上がった川底を走るようなものだった。道は天山から押し出された堆積した土砂の厚い流出物の上を滑っていた。ムザルト川の断崖を眺望する大地の上に堆積した砂岩の塊は風と温度差、時に雨の恵みで地形を変える。それも長い時間をかけ、少しずつ変化する。今度はラクダ草も疎らな道なき道がしばらく続いた。

ここでは人為的な道作りは自然の流儀に任せるしかない。道の勾配も大地の自然の動きに任せ、タイヤの跡がこれを忠実にたどったとわかる。バスが上下に揺れ、川を望む断崖の道に差し掛かった。

眼下にムザルト川が陽に輝いている。南にはくっきりと褶曲した岩肌を残す対岸が連なり、褐色のまだら色が前面に広がった。川に沿ったチャール・ダク山の砂岩の岩肌を望みながら脆い崖道を舐めるようにして急勾配の坂道をバスはあえぐように登った。
崖を左にところどころに木戸で塞いだ洞窟が見える。ようやくバスは石窟郡にたどり着いた。砂埃が舞うじゃり道を駆け抜けるように眼下の緑の樹園を目指し、バスは一気に崖道を下った。