2008年12月28日日曜日

もとより、ヒッチハイクは高くつく


 千佛洞まではヘイズ村から10㌔先、ムザルト川の渓谷が迫ってくる頃広い歩道に分厚いブロックを敷きつめた町に入った。鉄と石で固めた街並みを通過しバスは小休止の場を探した。街の入り口にゲートが架かった開拓地の工事現場の町にやってきた。

 その町を経由した断崖下には、川を遮断しているコア(核)に地元の岩資源を活用し、厚い粘土土壌で固めたロックフィルダム工法のダムが6分程度出来上がっていた。バスはそのダムの工事現場のど真ん中に乗り入れた。

 表面を土で固めた五十㍍幅の分厚いダムの上で、勢い盛んな連中が工事現場の人から説明を受け、見学コースに乗った。僕はこの際とばかり一人ダムの上を歩き回る。ダムのスケールは気分を沸き立たせ僕は小走りに動き回った。

 この観光地の無料見学の便乗は、三人で共有するずうずうしさが気持ちを楽にした。相棒が寄って来た。
 (笑いそうな顔で)「彼らは、どういう連中だと思う?」僕は「路線バスの他人同士じゃないよね!」(相棒に耳を寄せた)
 「共産党の政治思想を教える学校だって、バイチャン(排城)にある」。 

2008年12月20日土曜日

旅力は無言実行




 車の北側の風景は、クチャからヘイズ村までの過酷な自然とは全く違っていた。道路に沿って北から西に延びる厚い緑の帯が、村の存在感を伝えてくれる。ポプラの緑が外壁のように続き、かすんだ山並みのグレーを圧っしている。

 こうして彼らの分厚い人の塊と土ぼこりとひつじの肉が混ざった独特のにおいをかいで、しかも中国の漢族支配の世界から離れたウイグルの世界に足を踏み入れていると、北京での空想がはるか向こうにかき消されてしまう。

 僕たちは、89年6月4日の天安門事件から一周年目のその4日に警備が物々しい北京を後に列車で西に向かった。その間の西域情報は、まったくといっていいほどつかめず特に開放都市の開放の真偽がわからなかった。外国人の旅行制限の難度を旅の強行軍からつかめないまま、新疆ウイグル自治区に来てしまった。北京からウルムチ間の車中で収集した情報は、チームのフォロワー的存在である僕には、遮断された会話の中では、相棒経由のそれも滞りがちだった。

 確かに、ウルムチからクチャまでのバス・チケットは買えた。日本語の中国旅行ガイドブックには丸印の都市は解放、準解放都市とある。少なくともその都市と都市の間を行き来すれば安心コースに乗れる。少なくとも地図上でのチェックは間違いなかった。
だが、狭い路地に迷い込んでしまったようだ。開放都市・クチャに来ても全神経が心の余裕を拒否している。神経はぴりぴりとし、僕はしゃべることを拒否した中国人を装うしかなかった。

 強迫観念は、言葉のハンディキャップをもつ者にとどまらなくなってくる。僕たちの緊張した糸は既に日常のベースに入り込んできた。ワンは漢族の同胞に堰を切ったようにしゃべり続けた。

 車中は相変わらずにぎやかだった。ウイグル人は、音楽や踊りがうまいと聴いていたが彼らはおしゃべりも好きだ。冗談をいい、わめくようにしゃべり羽目をはずしたイスラム教徒の歓喜の車中に彼らの解放した純な空気がみなぎる信じられないような時間だった。

 褐色の肌をした、一癖もふた癖もありそうな男たちはよくよく見るとどこかで見たことがあるような気がしてきた。新品の紺の人民服を着ている車内の人気者は漫画家のおおば比呂司のそっくりさん。つば付帽子をかぶった背の高い黒いサングラスのおにいさんは、イタリアンマフィアの殺し屋風。恰幅のいい大福顔は学生のころお世話になった先生似。茶色で身頃を包んだ御茶ノ水博士は一団の長に見える。そしてマドロスガイ、彼らを横目にギアチェンジに苦労して、腹をさするツルッ禿の運転手の布陣だ。何とかウイグル人を観察できる余裕が出てきた。

 とはいえ、存在感の無い闖入者であれ!をめざした僕たちには、荷が重い連中だった。そのことを一番に感じたのは、ワンだった。相棒と僕への合図は彼らの話題になるな、無言を決め付けろ、というものだった。漢族婦人との語らいの結論だった。

2008年12月14日日曜日

無謀な旅はわれらが誉れ




 
破天荒な旅立ち ・・キジル行

 僕たち三人の小旅行は無謀といわれても仕方なかった。中国では中国人と外国人同士の旅行は、当局のお墨付きをもらうことが無ければ、トラブル防止からほとんど無いに等しい。中国人の方から避けてしまう。

 ところが、中国画の先生で相棒と僕の友人であるワンはあえてその難しい旅に付き合ってくれた。かれの取材旅行は自分の見たい、知りたい欲求を自然と対峙することで納得がいく実理本位だったため、単独旅行かどうかは二の次のことだった。西域の厳しい旅行に日本人と一緒に慣れきれるかどうかが、芸術家のワンに試されることだった。

 彼から受信した波長は今のところ良好だった。あとで確かめたら、僕と相棒の二人については怖さしらずの日本人が、西域に足を踏み入れたとワンは見ていた。東北・ハルピン(哈爾浜)での送別のとき、奥さんからくれぐれも気をつけて、特に僕は中国語が話せないから、ということを念に押されていた。

 僕と相棒は、旅費が足りないため人民元ですべてを支払い、現地で必要なものを調達するようにしていた。これが中国を知る近道だと理解していた。その中国化は中国人風に成ることに通じる。ただ、中国人になりきるには準備も心構えも時間をかけなくては無理ではあるし、とりあえず中国人もどきでいこう、ということにした。

 日本人が中国人を真似る第一歩は政府ご推薦のホテルを避け、現地の人が好む宿に泊まることだ。ところがこれが難しい。クチャをベースキャンプに旅をするにあたって、宿を探すには苦労した。身分証明書拝見というやつだ。この場合、ワンは漢族の中国人で十分だが日本人二人と一緒でいる限り知識階級であるという自己証明が薄くなっていく。三人がねぐらを一緒でありたいと思えば僕たちはますます裏道りに追いやられる。流れ者の世界に入る気分をワンに味あわせてしまう。

 日本人二人のこの負い目は僕たち三人の結束力を高めるきっかけであるが、その旅の日常が旅なれというずうずうしさを助長することにもなった。僕の現地化作戦は呆れてしまう程だった。ウルムチではカーキ色の毛(毛沢東)帽子と半袖の軍シャツを買った。残念ながら靴はブランド物、黒のリーボックシューズのまま。だが、店員が記念写真を撮ってくれたほどの見事な現地化の悪乗りからこの旅は始まった。ウルムチを出発するときのワンとの筆談から始まって、中国人化問題は確かに日本人二人に課せられた壁であった。とはいってもワンとのそのときの筆談は、日本人は行けるときまで行く、ワンはカシュガル(喀什)行きを貫徹すべし、と緊張が張り詰めていた。

 (僕と相棒はクチャから西が難しいと思う。君はとにかくカシュガルに行ってよ)
 (いや、私一人じゃ行けない。行くなら三人一緒だ)
 (わかった。行けるとこまで行くよ、強行突破もありうる)
 この強行突破がいけなかった。僕は即席の軍人になってしまった。

 クチャではワンが写生したり、写真を撮っている時は、相棒が先導し、僕がワンを警護した。カーキ色に身を包み、深々と帽子を被りながら、傍らから近寄らないで、と難しい顔をした役者が僕で、この下手な脇役者を見る観客は、用水の橋の袂でワンの絵を眺める子供たちぐらいだった。クチャの中国人、多数を占めるウイグル人はワンがカメラを向けても無関心で、自分たちのペースを崩そうとしない。紛れも無く僕たちは現地人から見た漢族・中国人であった。

 いずれにしても、人だかりが出来なかったのが幸いした。もし、絵描きのワンに事故がおこっても、僕は無口な中国人のままウロウロするだけ。ガードする者が実はガードされている構図なのだから。

2008年12月10日水曜日

クチャの北には千佛洞あり



ワン(王)が、バスに駆け寄り運転手と交渉した。千佛洞まで僕たちを乗せてくれることになった。
急いで乗り込んだバスの後列では、男たちがにぎやかにギターの回し弾きをしながらはしゃいでいる。既に酔いがまわっているのかと、僕たちは場違いな中に入ってしまったことに気をもみながら、バスの発車に任せた。

ザワザワとした車中では、合唱とギターの伴奏もかみ合わない。ヒゲ面顔のウイグル人達がギターを囲み歌う。女性への冷やかしはこれが楽しみだからと言いたげで沸騰した笑いが凄まじい。僕たちと一緒に山羊一頭を担いで乗り込んだウイグルの娘さんがいい的になってしまった。

僕は、千佛洞に行くにはいったんクチャ方面に戻るんだなアと、ようやく察しがついた程度だから、バスがどこから来たのか気にもかけなかった。まして、バスに乗り込んでも席の騒がしさはまだ他人事だった。

古いものを大切にする習慣が中国の経済状況にもかみ合って、バスは徹底的に乗りこなした貫禄十分なチャーターバスだった。 車内の破損具合は椅子に止まらず、運転席はというと無骨な本体をむき出しにエンジンが中央部にドッカリと占領していた。気安く僕らヒッチハイカーを乗せてくれたのはいいが、乗客の主役であるウイグル人はてんで乗り物には無頓着なように見えた。

こざっぱりとしたウイグル人の服装からウキウキとした空気が社内を包んでいた。そんなバスツアーでその半日の時間をすごすことになるとは思いも寄らなかった。三十分後、バスは動き出した。

バスの中は次第に晴れ間が広がってきた空の青に合わせるようににぎやかさを増し、いい大人が浮かれきっている。漢族ならモンゴロイドの骨相から年齢の察しがつく。だが、ウイグルの壮年の男たちを見ていると勇壮な草原の騎馬団を思い起こし、年をくっているように見えてしまう。 年老いたおじさんやおばさん、子供たちは一族郎党の端役に見えてしまうから不思議だ。僕たち三人は、すさまじい笑い声に毒気を抜かれながら、恐る恐る末席を借りて座わった。 それにしてもウイグル人にこんな素顔があるなんて、と感心するばかりだ。

席をずらせ僕と相棒に席に座れと目で合図した親切な人はウイグルの連中の中でも端正な顔をしたいなせな男で、ごつい顔つきの彼らと、童顔の日本人とはまったく違うことを教えるような貫禄をもっていた。都会の顔と農民の顔で分ければ半々。その青シャツにジャケットを羽織った一風マドロスガイは、後でわかったが信望の厚い教師だった。

ワンはウイグル人の乗客達の中では唯一漢族とわかる婦人二人の間に収まり、相棒は呆れ顔で無言を決めきっている。バスはT字路 に立つ千佛洞の看板を右に見ながら舗装路を西に向かった。

2008年12月1日月曜日

新疆旅 キジル1~終章(10)




キジル千佛洞ピクニック



                   うき がく



  千佛洞行きのトラックが来ると雑貨屋のウイグル美人が言っていたが、当てには出来ない。ガタピシの四輪車が来ては、僕らを珍客と見て眺めすかしながら止まっては過ぎ去る。それも時たまのこと。トラックに便乗しよう、なんてえらい話だ。

 クチャ(庫車)から路線バスに乗り、郊外のヘイズ(黒孜)村の入り口あたりに下車してもうかれこれ二時間近くたっていた。村はずれの溜まり場は、野外特設のビリヤード、食堂、露店の集まったバス発着所でもある。

 その目印のない、衆人承知の簡素な停留所にやってくる村人の三々五々のあいさつに合せるように、僕たち三人は現地ペースの弛緩した時間に慣れようとしていた。
 僕たちは、雑貨商店小町美人のご推薦ともいえる二つ三つの露店をひやかしにかかった。

お手製のゆで卵や、いもデンプンをゼリー状にした軽食、ヨーグルトが雑然と並んでいた。人待ちげにしては愛想のない店番達が、佇んでいるだけが絵になる時間だった。
 道路の端に座り込んだその単品屋の中では、唯一長椅子が用意されたデンプンゼリー屋の前で、僕たちは三人並んで刺繍仕事に忙しい小町娘の手元を見つめていた。

 ヨーグルト屋に目をやると、お客を待つおばさんが、しゃがみ上手な格好ではにかんだように、食べないかいと合図をおくる。隣の同じヨーグルト屋は、痩せっぽちの男の子が主人だが、遠くからの声に応え早々と店を畳んでしまった。

灌漑用水路の水を汲みにくるイスラム食堂の若奥さん、雑貨屋と用水の間の木陰で編み物をする娘さんたちが歌を口ずさむ。精悍なウイグルの男達が、小麦の麻袋をトラックに積み込む。

 通りの向かいで興じるビリヤード周りがめまぐるしく人が入れ替わる男の遊びの世界なら、こちらは悠々と働く女性の溜まり場の世界といったところ。朝のうち曇っていた空から日がさす、凌ぎやすい小旅行日和になってきた。北京時間でもう、十一時近い。

 乗り合いトラックは来ないが、代わりにバスが止まった。途端にゆで卵売りのおばさん達がバスに向かって賑やかに売り込みをかけた。周囲が急に忙しくなってきた。