2008年12月14日日曜日

無謀な旅はわれらが誉れ




 
破天荒な旅立ち ・・キジル行

 僕たち三人の小旅行は無謀といわれても仕方なかった。中国では中国人と外国人同士の旅行は、当局のお墨付きをもらうことが無ければ、トラブル防止からほとんど無いに等しい。中国人の方から避けてしまう。

 ところが、中国画の先生で相棒と僕の友人であるワンはあえてその難しい旅に付き合ってくれた。かれの取材旅行は自分の見たい、知りたい欲求を自然と対峙することで納得がいく実理本位だったため、単独旅行かどうかは二の次のことだった。西域の厳しい旅行に日本人と一緒に慣れきれるかどうかが、芸術家のワンに試されることだった。

 彼から受信した波長は今のところ良好だった。あとで確かめたら、僕と相棒の二人については怖さしらずの日本人が、西域に足を踏み入れたとワンは見ていた。東北・ハルピン(哈爾浜)での送別のとき、奥さんからくれぐれも気をつけて、特に僕は中国語が話せないから、ということを念に押されていた。

 僕と相棒は、旅費が足りないため人民元ですべてを支払い、現地で必要なものを調達するようにしていた。これが中国を知る近道だと理解していた。その中国化は中国人風に成ることに通じる。ただ、中国人になりきるには準備も心構えも時間をかけなくては無理ではあるし、とりあえず中国人もどきでいこう、ということにした。

 日本人が中国人を真似る第一歩は政府ご推薦のホテルを避け、現地の人が好む宿に泊まることだ。ところがこれが難しい。クチャをベースキャンプに旅をするにあたって、宿を探すには苦労した。身分証明書拝見というやつだ。この場合、ワンは漢族の中国人で十分だが日本人二人と一緒でいる限り知識階級であるという自己証明が薄くなっていく。三人がねぐらを一緒でありたいと思えば僕たちはますます裏道りに追いやられる。流れ者の世界に入る気分をワンに味あわせてしまう。

 日本人二人のこの負い目は僕たち三人の結束力を高めるきっかけであるが、その旅の日常が旅なれというずうずうしさを助長することにもなった。僕の現地化作戦は呆れてしまう程だった。ウルムチではカーキ色の毛(毛沢東)帽子と半袖の軍シャツを買った。残念ながら靴はブランド物、黒のリーボックシューズのまま。だが、店員が記念写真を撮ってくれたほどの見事な現地化の悪乗りからこの旅は始まった。ウルムチを出発するときのワンとの筆談から始まって、中国人化問題は確かに日本人二人に課せられた壁であった。とはいってもワンとのそのときの筆談は、日本人は行けるときまで行く、ワンはカシュガル(喀什)行きを貫徹すべし、と緊張が張り詰めていた。

 (僕と相棒はクチャから西が難しいと思う。君はとにかくカシュガルに行ってよ)
 (いや、私一人じゃ行けない。行くなら三人一緒だ)
 (わかった。行けるとこまで行くよ、強行突破もありうる)
 この強行突破がいけなかった。僕は即席の軍人になってしまった。

 クチャではワンが写生したり、写真を撮っている時は、相棒が先導し、僕がワンを警護した。カーキ色に身を包み、深々と帽子を被りながら、傍らから近寄らないで、と難しい顔をした役者が僕で、この下手な脇役者を見る観客は、用水の橋の袂でワンの絵を眺める子供たちぐらいだった。クチャの中国人、多数を占めるウイグル人はワンがカメラを向けても無関心で、自分たちのペースを崩そうとしない。紛れも無く僕たちは現地人から見た漢族・中国人であった。

 いずれにしても、人だかりが出来なかったのが幸いした。もし、絵描きのワンに事故がおこっても、僕は無口な中国人のままウロウロするだけ。ガードする者が実はガードされている構図なのだから。

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