2008年12月20日土曜日

旅力は無言実行




 車の北側の風景は、クチャからヘイズ村までの過酷な自然とは全く違っていた。道路に沿って北から西に延びる厚い緑の帯が、村の存在感を伝えてくれる。ポプラの緑が外壁のように続き、かすんだ山並みのグレーを圧っしている。

 こうして彼らの分厚い人の塊と土ぼこりとひつじの肉が混ざった独特のにおいをかいで、しかも中国の漢族支配の世界から離れたウイグルの世界に足を踏み入れていると、北京での空想がはるか向こうにかき消されてしまう。

 僕たちは、89年6月4日の天安門事件から一周年目のその4日に警備が物々しい北京を後に列車で西に向かった。その間の西域情報は、まったくといっていいほどつかめず特に開放都市の開放の真偽がわからなかった。外国人の旅行制限の難度を旅の強行軍からつかめないまま、新疆ウイグル自治区に来てしまった。北京からウルムチ間の車中で収集した情報は、チームのフォロワー的存在である僕には、遮断された会話の中では、相棒経由のそれも滞りがちだった。

 確かに、ウルムチからクチャまでのバス・チケットは買えた。日本語の中国旅行ガイドブックには丸印の都市は解放、準解放都市とある。少なくともその都市と都市の間を行き来すれば安心コースに乗れる。少なくとも地図上でのチェックは間違いなかった。
だが、狭い路地に迷い込んでしまったようだ。開放都市・クチャに来ても全神経が心の余裕を拒否している。神経はぴりぴりとし、僕はしゃべることを拒否した中国人を装うしかなかった。

 強迫観念は、言葉のハンディキャップをもつ者にとどまらなくなってくる。僕たちの緊張した糸は既に日常のベースに入り込んできた。ワンは漢族の同胞に堰を切ったようにしゃべり続けた。

 車中は相変わらずにぎやかだった。ウイグル人は、音楽や踊りがうまいと聴いていたが彼らはおしゃべりも好きだ。冗談をいい、わめくようにしゃべり羽目をはずしたイスラム教徒の歓喜の車中に彼らの解放した純な空気がみなぎる信じられないような時間だった。

 褐色の肌をした、一癖もふた癖もありそうな男たちはよくよく見るとどこかで見たことがあるような気がしてきた。新品の紺の人民服を着ている車内の人気者は漫画家のおおば比呂司のそっくりさん。つば付帽子をかぶった背の高い黒いサングラスのおにいさんは、イタリアンマフィアの殺し屋風。恰幅のいい大福顔は学生のころお世話になった先生似。茶色で身頃を包んだ御茶ノ水博士は一団の長に見える。そしてマドロスガイ、彼らを横目にギアチェンジに苦労して、腹をさするツルッ禿の運転手の布陣だ。何とかウイグル人を観察できる余裕が出てきた。

 とはいえ、存在感の無い闖入者であれ!をめざした僕たちには、荷が重い連中だった。そのことを一番に感じたのは、ワンだった。相棒と僕への合図は彼らの話題になるな、無言を決め付けろ、というものだった。漢族婦人との語らいの結論だった。

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