2008年11月8日土曜日

ソ連がソ連であったとき


今日で法律上60歳になる。人生60年だ。あと30年、・・「どうなるかな・・・?」
それにしても、今年は眞三郎・父が死に、ヒラリー、緒方拳、筑紫哲也と続々だ。おまけに、金融恐慌、オバマ米大統領と盛りだくさん。自分は、どこへ行くんでしょうかね?足元を紐解いていくと続々と冒険譚が見つかった。少しずつ開示し、物の見方、考え方を通し、これからの時間を有効活用したい。

次に一九七五年の青春 その2


(記憶遥か)
船酔いで初日から気分が悪い。薬が効かない。昼間から船室で休むことにする。部屋に入ると、ピーターと吉田の両名が議論している。相当激烈、、雰囲気がおかしい。二人の議論の中味は、机上のメモを見て察しが着いた。文章を輪切りにして異説紛々、いがみ合っている。

「言葉は生き物。切り刻んで料理することはできませんよ、生きていますから」。私の一言で何故か二人の議論は中断。以後、吉田氏は好意的、ピーターはさっぱりしたような、これまでのインテリ発言が影を潜めるようになった。古本屋あがりの書生くさい一言が、どんな効果を発したのか?二段ベットの上で就寝。船も別世界ではない。日本のことも、世界のことも、どこにいても。(2001.10)

8月28日
ナホトカ19時30分着,20時30分発ハバロフスクへ急行寝台車。
8月29日
30ドル換金。ハバロフスク12時30分着

9月1日
機上、日の出前

 ソ連のボリュームに圧倒され、緊張から十分な睡眠が取れない。ナホトカから夕方の列車でハバロフスク。空港で定刻を十二分に待たされ、出発ジェットに向かうリムジンバスから突然一人、旅の友と別れ、別便の待機ジェットでイルクーツク経由タシケントへ。 日本語で叫ぶと答えてくれる、あってほしいものがない。寡黙な時間がスタートした。

 タシケントの朝,ガイドさんのアイリーン20歳。開口一番「ヤマさん」だもんね。日本語が聞けた。アイリーンは翌日、オーストリア人担当。翌日のデート申し込みは、けられた。

そして,ソ連の若者、アレ、イゴ、マレの三人。教育されたコミュニズムの力がどのように生かされるのか、話していて感じられない。なにせ昼間っからウオッカ攻めで酩酊している。ウズベクでキャピタリズムとコミュニズムを語り合うことが、彼らと話すことが彼らに失笑を買うことに成っているとすれば、それは一時の呑み時間のことであって、十分な公園での憩いの時間と言うわけ。

それにしても、中央アジア系のひげづらの初老のこじきが迫ってくるには、驚いた。ソ連にはこじきがいる。三人のなかのアジア系の一人が彼を追い払った。親切そうに追い払ったのではない。いかにも迷惑という風に。追い払った彼はどんな気持ちで・・・ソ連だから・・どう考えたらいいのか結論を求めることではないのだが。

歴史博物館、美術館、デパートを歩く。道で、公園であったアレ、アレキサンダー・スミイロフと再会した。ニコニコと、且つかしこまって近くのアレの一戸建ての家に招待してくれた。彼の弟がいて三人で椅子に座って、おもむろにアルバムを見せてくれた。海軍、赤軍、徴兵か。兵隊の自分たちのことを伝える写真。黒海での演習の写真。記念に写真を撮ろうとしたら、ソ連では外国人を民間人はまねいてはいけないこと。名前も聞かれても答えないようにと、恐縮したように言う。
最後に、彼の時計とカメラを交換しないかと提案してくる。断ると、ソ連の収集切手を記念にくれた。遠来の客をもてなす彼の素直なな気持ちがわかった。
家の門前で別れる。

現在,朝の7時。タシケントからトビリシの機上。低空飛行に入った。朝日を浴び砂漠が眼下に迫る。あと何日か、何ヶ月かの後に、砂漠の上を歩く機会があるだろうか。長い旅になる。気が重くなってくる。
タシケントはオアシス都市、多民族の国。

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