2011年3月5日土曜日

ヒッチハイクロードの出会い



11月19日 テッサロニキ

11月20日 クサンティ
(記憶遥か)
アテネからトルコ国境の旅は高速道路のヒッチハイクがいいと口コミで伝わっていた。そこで路線バスで高速入口まで行き、運よく声をかけてくれたオランダの青年と乗用車に乗り込んだ。今日はテッサロニキ(サロニカ)あたりまで行きたいと勝手に決めていた。オランダの青年は乗せてくれたギリシャの中年の運転手さんと盛んにドイツ語で話している。合間に「運転手さんはテッサロニキに行くつもりだったらしいが、体調が悪くて難しそうだ」と言った。そして「あなたはどうする?」と聞いてくるので「テッサロニキには行きたいけど、しかたないね」と答えたらしばらくして又、同じ質問をしてきた。

私は今日は無理かと思っていたら、運転手さんが途中で食事をしたいらしくパーキングエリアに入り食事をおごってくれた。私と彼はていねいにお礼をいったら、その運転手さんはどうやら僕たちの様子を確かめたかったようだった。オランダの青年は、その運転手さんが長く西ドイツに出稼ぎに行っていて久しぶりに母国のギリシャに帰ってきたことを小声で教えてくれた。運転手さんのおかげで目的地のテッサロニキに晩くに着くことができた。

テッサロニキに着き、街中で車を降り運転手さんにお礼を言って、私はオランダの青年とも別れた。小雨の中を歩いていたが街灯が薄暗くホテルの所在が皆目わからない。仕方がないので門構えがしっかりした建物が見えたので構内に入った。屋根のある渡り廊下をみつけたので、ちょうどいいと思いコンクリートの上に傘を開いて寝ることにした。

翌朝、誰かが寝ている私の肩をゆすった。警備員だろうか。朝日がさんさんと注ぎ、今日は天気がよさそうだ。構内をでるとき振り返ったら、昨日はどうやら図書館をねぐらにしたようだった。東に延びる道路をひたすら歩いていると大型トラックが止まってくれた。ギリシャの運転手さんはいい人だった。乗って5分もしないうちに昨日のオランダの青年が道端で手をあげていた。彼をみつけた私が大声で手を振り運転手さんにおしえたら彼も乗せてくれた。

クサンティを過ぎたあたりでトラックと別れまた歩き出した。オランダの青年はのどが渇いたらしく、近くにお店を見つけ「お湯をもらってくるよ」といって水筒を片手に路地のお店に入っていった。しばらくして彼が追いついて水筒を私にさしだした。私は彼の好意をありがたくいただいた。歩きだしたら彼が「あっ、お湯でなくて・・・」といったので私は「おいしかったよ」といった。そこらへんが習慣の違いなのだろうか、私にはありがたい水だった。

ポカポカ陽気になってきた。僕たちは道路沿いの公園で一休みすることにした。彼はオランダで体育の先生をしていた22歳のヴェラン君と自己紹介した。彼は退職して旅に出てギリシャのキプロスの果樹園でオリーブもぎの一仕事をしていて、そのがっちりした体躯をつつむ黒いスーツはよくみると船乗りの服のようで「別れるとき親方からもらったんだ」といった。ショルダーバック一つだし、軽装な旅なのに私は感心した。私は彼に「あなたはドイツ語やギリシャ語も話すんだね」と質問すると「オランダは小さい国で就職先が少ないので、外国語をしゃべるようにしないとね」と若者の就職事情を教えてくれた。

公園には何でも興味ありの子供がいた。地元の小学生らしい子が盛んに「日本人・カラテ」「日本人・カラテ」とはやしたてながら寄ってきた。私はカラテを否定してその子に「日本人・スモウ」「日本人・スモウ」とからかうように返事をするとわからない、というように首をかしげたので私は足で土俵を描いた。土俵に勇躍あがった私はしこを踏み、塩をまき一人相撲をやりだした。するとその子と一緒にヴェラン君もニコニコしだした。私はその子に土俵に上がるように手招きし一勝負した。その子は体を組むというのがわからないらしく、土俵をでてはいけないというのもわからない。私は、困った困ったと首をかしげているうちにヴェラン君も加わり二人が同時に私を土俵から押し出して、笑いのうちにその小劇は終わった。

国境近くに来た。建物の中にヴェラン君と入ったら日本人のバックパッカーが一人座っていた。彼は自己紹介を英語で、自分のニックネームもいうので私はすごいベテランの旅行者だなぁと思った。それに私なら日本語では「君は」というところを彼は「あなたは」といいだすので紳士的なのに面食らった。彼がながの旅の空で相棒となる松岡君との出会いだった。






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