2018年10月3日水曜日

八甲田登山



名月をとってくれろと泣く子かな
 
 



 


最近では丹沢・大山、奥多摩・高尾山ぐらいで30代以降、本格的な山登りはトントご無沙汰だった。この現年齢マイナスなんぼの高低落差が装備、体調、運不運で露呈したのが今回の古稀記念登山のハイライトだ。このため雪行軍で有名な豪雪の山、八甲田山の主峰・大岳と途中の上・下毛無岱(岱・たいは沼地の意)周囲の圧巻を誉め過ぎても余りある高密度の山旅になった。これに対し意見を異にするであろう今回の相棒・K君の忠告は次回に持越しということにして、まずは「装備」をみてみよう。

 

初日、大岳の南麓にある酸ヶ湯キャンプ場でのテント張りは順調だった。しかしK君からは多くの反響があった。

「なつかしいなァ三角屋根のテント!」「雨が心配だったけど軽量山靴を履いてきてスパッツをわすれた」「食料は災害常備品中心、一緒でよかった」等々。僕のテントは一人用の60年~70年代のまさにキャンバス地の三角テントでこれは一種の貫録勝ちのつもりだった。ビニール傘を除けば雨具は上から下まで万全にした。二泊三日の食糧は結果、余るほどつめ込み災害常備品の半分以上が缶詰だった。
 

こうなると装備はどうしてもてんこ盛りでK君がキャリーバッグとザックの二個口で行くという話が自分のことになってしまった。重く引き摺る、およそ考えたことがなかった山旅スタイルが出来上がってしまったのだ。

 

20㌔以上の山の道具を担ぐのはシルバーエイジには無理である。踏ん張る力に自信がなかった。加えて致命傷になりかねない事件がおきた。
 

行動日の四日前、24日の夕刻、雨降る中を僕とつれあいは保育園に孫を迎えに行った。一歳過ぎの孫を左手にかかえ傘を差し保育園の階段を降りた途端、ツルッと滑った。孫は驚いて泣き出し僕は仰向けに倒れ右足先の甲を赤く出血し擦り剥け、左足のふくらはぎを打撲した。こらえ、おちょこになった傘を戻し孫をなだめ家路に着いた。つれあいと現場を見ていたお兄ちゃんはそれをわかっていたのだろう、家に帰ると直ぐに「二階に上がろう」といって僕を誘った。
 

二階の息子の部屋がこの子のお気に入りだった。部屋の天井には闇になると蛍光色で輝く散りばめて貼ってある星雲を見るのが好きだった。梯子に昇り蛍光灯の灯りを消すと「成功!ヤッタ、ヤッタ!」とはしゃいで喜んだ。彼の想像力は今度は星を採ってくれ!というのが願いだった。僕は竿のようなものを持って痛い足をかばいながら一段、二段とその子と唱和しながら天井の中秋の月に手を伸ばした。

 

 
 

~下毛無岱から酸ヶ湯の僕らのベースキャンプの下りは思いのほか順調で心配していた足が痛くない。もったのだ。先に下りた僕は温泉会館のフロントに駆け込み二つのことを頼んだ。「キャンプ場に泊まったんですけど、台風24号で刺激された秋雨前線で明日は雨が確実。テントの入口のジッパーが壊れたこともあり雨天の撤収も無理なので素泊まりをお願いしたい」「山の道具がパンパンでキャリーバッグのジッパーが壊れたので宅急便で家に着払いで送りたい」。山道の下り道、台風、大雨、壊れたテント、壊れたバッグのキーワードを考えていた。景色を見るのも虚ろに僕は一つの結論をそう、出した。
 

結果は旅館の配慮でOK!になった。下りてきた相棒に僕はソフトクリームを頬張りながら伝えた。彼も賛同し、キャンプ場の二日目泊をキャンセルして湯治棟の六畳で体を休めることができた。
 

翌日は朝から雨。僕たちは一個口のバックを無料の送迎バスに乗せ青森駅に向かった。
 

それからの作戦も吉と出た。駅のみどりの窓口で係の女子に「とくダ値25」をみせたところ一度キャンセルして新しい乗車券をという。次に僕らは新青森駅に鈍行列車で行った。僕は構内で悩んだ。大阪は台風の影響からすでに翌日の列車の運行を発表していた。東京管轄は大型台風に対する翌日の対策をいまだ行ったことがない。東京では計画運休が伝わっていないことが、つれあいから伝わった。この切符で夕方に乗車し20時すぎに東京に着いても運行の見通しが午前10時段階では判断がつかない。そして僕らはみどりの窓へ。みどりの窓口の係りの女子が一枚の紙を確認しながら「台風のため乗車変更ですね」とあっさり次に発車する新幹線の指定席きっぷを僕たち二人に発行した。なんとドッキリな話ではないか

 


 

 

 

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