2013年2月24日日曜日

いました、青年海外協力隊員


2月5日 ポカラ チベッタンエヴェレスト4リラ

 

ネパールの山道を這い上がるようにして路線バスが高度を上げる。緑の山と集落は日本を思い出させてくれる。懐かしさと有難さを感じる。ポカラの空はカラッと晴れ渡り雪をかぶった高山がそびえている。それに路面のバザールのネパール婦人の美しさにウットリ。首を横にかしげて「ナマステ!」。

 ポカラで4日休養。マチャプチャリが見上げるような位置にそびえ、左右にアンナプルナの峰々。アフガニスタンで会った海老沢君と再会し、タトバニ(温泉の意味)までのトレッキングコースの話を聞く。山に早くいきたいという気持ちと裏腹に身体の回復がもう少しかかりそう。朝は湖畔を散歩し日中はバザールをひやかし、午後は日光浴が休養のメニューだ。

 王国のネパールは各国の援助でイキをつき、インド製品が幅を広げ、といいながら外国を警戒し、衛生面や商業、物流などをツーリストの触れる範囲で感じるのは貧しい国・ネパールだ。インドのヴァラナシで煙ハンターのカナダ人がいっていた。ネパールは前王の後、経済の壁はいっきに取り外されたが変わっていない、と。

 (記憶遥か)

9日、カトマンズにバスで向かう。路線バスの前側、窓側の縦長の椅子に座る。一人の男性が地元の人に促されるようにわたしの隣に座りさっそく本を取り出した。日本語だ。JOCVの隊員。カトマンズに帰る途中の丸尾さん、30歳。わたしをチベット人だと最初に思ったという丸尾さんは世田谷出身の帯広畜産大学出の青年海外協力隊員でカトマンズ郊外の農場に赴任しているという。車中では話が弾みカトマンズに着いてからもいろいろお世話になった。

 そのカトマンズの隊員拠点にさっそく同行した。入口のドアを開けたら一人の女性がソファから立ち上がった。丸尾さんはご存じの方で、立ち話の様子を見ているうちにその女性のことが記憶にのぼった。朝日新聞の協力隊の紹介ページでインタビューに応えていた女性だった。その記事はその女性中心の企画だったような気がする。写真で覚えていたのだ。楚々としていて、記事は隊員イメージとは違っていたので・・・なるほど女性は言葉少なだった。

 その女性のあいさつが終わり、丸尾さんが部屋のドアを開けたら白いカバーをかぶった大部屋のベッドがズラッと目の前にひろがった。丸尾さんが遠くの集団に向かって名前を呼ぶと、一人の女性がベッドをまたいでピョンピョンとやってきた。拠点は病院の看護士さんの宿舎でもあった。そのベテラン看護士さんをまじえ三人で情報交換した。

 インドの話になった。エローラに往く時、すさまじく人が群がる列車だった。すし詰めの車内に乗り込んできた大道芸人の子どもが楽器のリズムにのって高音の美しい歌を歌う話になったら、「それはラーマヤナの神話のひとつよ!」と彼女はいった。大混乱のインドではツーリストだからといって遠慮していたら生きていけなくなる。彼女の話がふるっていた。

 彼女がインド旅行で列車から買い物のため下車して、発車の時になったら乗れなくなってしまった。インド人の男性が通せんぼうのようにして乗せてくれない。そこで彼女はその男性の腕をガバッ、とかみつき、ひるんだスキに列車に乗り込んだという武勇伝だった。

 協力隊が農業の面でネパールの発展に貢献している話は南ネパールの日本米の生産で知っていた。丸尾さんが昼ごはんに連れて行ってくれたネパール食堂ではパサパサのインド米ではなく、さっそくモチモチのカレーライスにありついた。その店の売りは大きなシュウマイだったが、お米のうまさにそれから毎日のように通った。でも、何回か食べているうちに何か物足りないと感じた。カレーの辛さだ。

 カトマンズの少し甘いと感じる味のカレーがインドのカレーの辛さを思い出させ「インドのカレーが食べたい!」という気にさせる。インドの乳酸の甘いラッシーのうまさもあのニューデリーの軽食堂の水っぽいが辛いカレーがラッシーのうまさを引き出させてくれるような。つまりインドのあの暑さと湿度がカレーの辛さと一緒にじわじわと懐かしくなってくるのだ。

 



 

0 件のコメント: