2013年11月4日月曜日

青春18キップ的すすめ 10 二俣川~横浜                 いつも旅は昼食を忘れる




いつも旅は昼食を忘れる

「西南シルクロードは密林に消える」

 

10時すぎに運転免許証の更新で横浜の二俣川に出かけた。文化の日の日曜日、月曜は振替休日の連休のため電話で「本日は休み」を期待したが「やってます」なんて意外だった。

小田急線と相鉄線のルートで行く。二俣川は大型店が多く運転免許試験所に行く人だけの町、とは時代が大違い。町はにぎやかで様変わりだった。そして歩きは行きも帰りも同じ道で今日の目的は無事終了。しかし帰りの電車は同じでは面白くない。そこで横浜~地下鉄線に帰りのコースを切り替えた。

相鉄線の急行で一つ目の横浜駅を下りて横浜駅を東西に結ぶメインの地下道に向かう。東西通りに行く地下道は人の多いこと。そごう横浜店の美術館の催事ポスターを探すが見つからない。そのため人がワンサカと交差する東西通りをお上りさんのように前後左右の店をウオッチしながらついにカリヨン時計のあるそごう店まで歩いてしまった。美術館のポスターはアールヌーボーのミュシャ展だった。

今度は西側にあるらしい東急ハンズに向かう。西口までは遠いし人が多いのにうんざりする。町中,地下道以上に人、人で混雑するハンズでショルダーバッグを調べる。ついでに防災グッズ売り場に行く。一階に下りてメンズ専門店の「シップス」「ビームス」をチェックしたらここは専門店街のモアズだと知った。店の前は工事中か地上げのためか海幸、山幸の仮設レストランがビニールテントにつつまれ営業中だった。人の多さだけでなく町・店のボリュームに圧倒される。

 地下鉄に乗って終点あざみ野へ。電車は読みかけの本を開く読書の有難い時間だ。本はまだ前半、ビルマの密林に分け入った日本人探検家の波乱万丈の佳境にさしかかっている。もとより二俣川~横浜の町と店と人の圧倒的なストレスと本の話とは違う。だが、自然の豊かな町から大都会に分けいって、頭がクラクラしてしまったのだから仕方がない。

 「西南シルクロードは密林に消える」(高野秀行)は中国~ビルマ~インドを結ぶ南ルートのシルクロードの冒険物語である。政府軍に反旗をひるがえすカチン族の軍団の手助けで歩き、象の荷となって密林を分け入っているうちに精神を病み、体調をくずし、サバイバルルートを作者は行くというビルマの渦中を描く。その話しが大勢の人と町の活気を感じながらストレスをため込んでいく現在となぜかリンクしたのだ。そして、この日はいつもの旅のように昼飯を忘れていたのに地下鉄車中で気がついた。なぜかうれしくなってしまった。

 

2013年9月29日日曜日

青春18キップ的すすめ9  森の仕事 森の幸 ~諏訪郡富士見町沢入山 5





 


 
 

風の道


山には風の道がある。こんもりと常緑樹が茂った森に風の道が通る。山に巻くようにくねった林道がその通り道で、風を誘い込む。それが突然、空間がスポッと開かれると風の渦を巻く力がすさまじい。風の音がわづかばかりでも唸るからたまらない。

青木の森の敷地の上はちょうど二股で、Y字形の林道が通る。ところが、Yの上の方のVの敷地の樹木がきれいに刈られると、風は気流の唸りを高め太い風の道を見つけたとばかり恒常的に吹き貫ける。Vの敷地の常緑の森が消え、ナラや松の木はこの1-2年のうちに九割がた小屋で使うストーブ用の薪になってしまった。小屋の若主人がペンキの塗り立ての小屋とチムニー屋根を指さして薪ストーブがあっての山小屋だという。なるほどトレンドィな生き方は町だけではないのだ。

その空地と化した風の通り道のためか、敷地内の数多い赤松は高所地震の揺れ具合と似てよくしなる。たまらなくなった赤松の一本が裂けるように倒木していた。到着しての大仕事はこの裂けた赤松の撤去作業だ。

斧で裂けた赤松の樹皮を叩く。大人の高さの裂け目で助かる。千曲鋸を挽き、斧で上から下から叩くとあっさり幹を離れた。それから15㍍高の赤松をたたむように輪切りにしてナラの木の根本にうっちゃる。夕方までに帰ると言った手前、作業は小一時間で十分。スタミナも時間もない。おまけに今回は駆け抜けるような一人山仕事。里は黄金色の稲穂が垂れ秋本番。行くなら尾白川の湯桶がいい。

 

2013年8月18日日曜日

色褪せた旅姿・・



318日カトマンズ発

 210日以来1か月ぶりでカトマンズを出発。途中、休憩場でバスから降りた西欧人が路上で泣いている子どもを抱きかかえ、住人に声をかけていた。
 
319日ジャマカプール

320日スリグリ

321日ダージリン

ダージリンに着いたらさっそく売るものを考えた。いっちょらのグリーンの山シャツにした。道で外人が「ダージリンで見るところがありますか?」と聞いてきた。カンチェンジュンガ(8586㍍)を望むタイガーヒルに行ったが「ほかに何処か?」という時間つぶしで困っていた人は、あの子供を抱えて叫んでいた旅人だった。「ZOO!」といったら納得していた。見るところがなかったら動物園が定番コース。

324日ガントック・シッキム グリーンホテル5リラ

シッキムはインドに併呑され、いたるところにインド兵がいる。観光気分にならない。久しぶりに雨が降り、お寺と学校を見に行く。

326日シールダッハ・インド

327日カルカッタ

カルカッタの宿でネパールとダージリンであったドイツ人、ハンス・ウヲルツさんと朝に再会。ドイツ語で「おはようございます」といったら「日本人は教養がある」そうだ。

カルカッタの熱さはビーチサンダルを溶かす。おまけに建築中の高層ビルの足場は竹がクネクネと曲がって組んであるので下から見上げるとクラクラする。博物館といえばイギリスの遺産のよう。「ドクターモローの島」(H・Gウエルズ)に出てくるような奇形の人間を含めた動物のホルマリン漬けの標本が展示してあり気色悪い。

 
331日バンコック・タイ

夜半にバンコク空港着。タクシーで市内に入ったものの宿探しが苦手のため、公園の滑り台下で寝ることにする。懐中電灯を照らす制服の二人は若い警察官だった。事情をわかってくれて近くの官舎に車でわたしを連れいってくれる。大部屋のカイコ棚のベッドで寝る。

41日 楽宮旅社30バーツ

412日ホワヒン 20バーツ

 リゾートビーチの町はこれから祭りごとがあるらしく、仮設の舞台では民族楽器の練習をしていた。路上には死後硬直した野良犬が野ざらしで捨ておいてあった。ホワヒンビーチにはプライベートビーチがあり、かってに泳いでいたら、サメに襲われるのではないかという恐怖心を感じ海の中で暴れる。

420日 バンコクに戻る

424日台北・台湾 白宮旅社80

 台湾空港の入管チェックで係官がわたしの顔をみながらいきなり「お前は赤軍派だな!」といいだした。嫌がらせだ。ノーを繰り返しようやく入国。

 428日最後の空旅。

出立の空港。搭乗機に向かうバスに乗ってつり革に佇んでいたら、目の前に座っていた日本人の中年男がわたしを上から下までなめるようにみつめぶつぶつ言っているので、いよいよ帰るんだ、と覚悟を決める。

 羽田から帰国したことを母に電話で告げる。蒲田行のバス停。一人のスチュワーデスがわたしを笑顔で見やりながらバスに乗った。私鉄の同じ駅の日航の女子寮にかえるんだなァと思った。駅を降りるとやはりスチュワーデスが前の方から下車していた。栄会通りの店を懐かしく見る。金物屋の倉方君。その後ろの家は佐久間君。安部ちゃんの表具屋さんが左手。角っこのバーバー・ミツハシには相変わらずガタイのでかい三橋はいないだろうなァと窓を透かして見る。八百屋の倉方君?に魚屋の相場君、と見知った小中学校時代の友達の店の前を通過して第三小学校。その先、角の山口さん家(ち)の路地を曲がって家の戸を開けた。色落ちした服につくろったザック、靴のやせこけた旅姿。母が縁側のガラス戸を開けて立って待っていた。「おかえりなさい」。(完)

2013年5月23日木曜日

サガルマータトレック 旅の頂き




37Pangboche

Pheriche4250㍍)

38Lobuche4900㍍)

Kala Pattar5545㍍)

 39Pheriche

310Tamboche

311NamcheBazar

312Lukla

313日カトマンズ

 3月7日
  4日は旧正月。そのせいか昨日は子どもたちの踊りの声が響き、夜は夜でにぎやかだった。春が来たのだ。アフガンで迎えたのは新正月だった。ネパールと合わせ正月をこれで二回も迎えられた。8時半、ナムチェ出発。ここからがエベレスト街道。昨夜飲んだチャン(お酒)のせいで口からガスが出っ放し。そのゲップのあとはおなら。おまけに下痢ぎみで調子が良くない。

  黒沢君が言っていた。ポカラからトレーニングがてら出かけたトレック先で日本人経営者の宿に泊まり高所登山の注意を受けたと。一に食事はのど元まで食べて身体を強固にする。二に頭を冷やさず胸は温めて。高山は酒は禁物。

  なるほどこの道中でも高度順応せず、お酒をあおってエベレスト街道をヤクの背に揺られ頂上を目指した若い日本人があえなく撃沈した話があった。僕らの目の前をフラフラ往く姿がちらつく。幻影で終わってほしい。

  山稜が真っ白で美しいAmadablang6865㍍)のアイスバーンが東に光る。雲の間からMt.Everest8848㍍)が見える。日本から来た女子登山家3人とローツエ隊の一員。日本人が多いこと。

  川がY字に分かれるPhunkiでキジをうち、ゲリのしまつ。Thyangbocheの有名な僧院に1時半着。ここからもう一度川に向かって進む。雪解け道を歩く。川の岩場にはつららが残り夜の寒さは氷点下になる。Pangboche3901㍍)に4時過ぎに着く。まわりは雪だらけの山々。黒沢君が言っていた。ヒマラヤはヨーロッパアルプスよりでかい。なるほどここはドカーンッと広くて重い大きさだ。

 38
  Pangbocheの宿は貧しい。黒沢君いわく「ヨーロッパアルプスの時代物の家はこんなだった」。部屋中が煤けているのが気になる。家が23軒であってそれが集落。畑は硬く、畑は石で囲まれ、そんな土地にいる生活。家の人は風呂に入る習慣にない。汚れているとか汚いとかは全く関係ない生活がある。
 
 昨日の夕方登った裏山から見た山の景色は素晴らしかった。今日もそう期待したい。

 8時過ぎ出発。今日も快晴。Phericheまで難なく進む。Dingbocheに行く道と別れ左に巻く。Phericheにはホテルが二軒と病院がある。右手の丘にヤクが放牧されている。ゴムぞうりでかけ上って写真撮影。14000ft.4250㍍)の地にいるといっても高度障害による変化はなにもない。

 Lobuche4900㍍)に向かう。ここからはゆっくり。逆に黒沢君はペースが速い。ケルンが見える。Lobuche Peakに迫ってくるころいささか頭が重くなってきた。そこから沢に降りてゆっくり昇っているうちに酔っ払いのような症状からふらふらする。今はいささか頭がムカムカする。

 39
  7時半発、Kala Pattar5545㍍)着1045分。

 昨夜は寒く夜半に目が覚めた。真っ暗な部屋。かすかにドアに射し込む月光をたよりにトイレに立つ。不思議に記憶はしっかりしたものでつまづくこともなく外の放尿、シュラフ・インの行動がスイッチが入ったようにうまくいった。真夜中の小便の時間は長かった。見上げた空は星ばかり。

 快晴、風よわし。絶好のラストコースだ。クンブ氷河が押し寄せて止まったようなところがLobucheでここから堆積したモレーンの岩山を乗り越えていく。岩だらけの道は靴にはひどい負担だが最後の務め。黒沢君にカメラをわたしたくなった。カメラを構える気力がわかないのと先方隊の栄誉を伝えたい気持ちから自然にそうなった。いい写真を期待する。

 足元を見ながら登る。あごがのどにくっつく感じだ。呼吸がきつい。頭がボーッとする。締めつけられるように頭が痛い。孫悟空のように頭を金属で締めつけられた苦痛が続く。

 アイスバーンになった砂地をわたりガレ場を昇っているつもりだった。ところが事実は貝殻模様ををたどるように下っていた。気がついたら遥か東北にKala Pattar Peakがあった。Pumori7145㍍)が前面にそびえKala Pattar5545㍍)がPeakだとわかる程度にみえた。簡単には登らせてくれない。

 タルチョがはためくトレックの最終点、Kala Pattarに着く。西には世界一美しい山、PumoriMt.Everest8848㍍)の主峰。東にLhotse(8516㍍)まで雄雄しくそびえている。やや雲が多く、上空は風が強い。頭を締めつけたような痛みが消えていく。

 

 

 

 

 

2013年5月4日土曜日

サガルマータトレック 男性、女性そしてサルのあいだ






(記憶遥か)

  ナムチェでは大きな宿に泊まった。ロッジ風で天井が高い20畳以上のドミトリー部屋だった。僕ら二人と反対のブロックでは昼間から笑い声が絶えない。若い女性の登山者が二人、リズムに合わせたように秒きざみでケラケラ笑っている。どうやらオナラが止まらないためのようだ。

  そんな中、若い男性の登山者が黒沢君に向かって話しかけている。「日本人は部屋を一旦出てほしい」といってきた。なんだかわからないので、そのまま着替えていたらまた、その男性が催促してきた。わたしは「おかしいんじゃないの、なんで日本人なの?」と黒沢君に尋ねたら、そのスイス人だという男性と同行している女性が足を洗いたいので出てほしい、といいたいのだった。

  なんで室内でバケツの水で足を洗うのか、登山に慣れていないハイカーが飛行機で一気にLuklaを経由してナムチェに来ることができる現実にわたしはあきれた。ようやくナムチェに着き、わたしはそんな連中にかまっていられないという気持ちでいやいや部屋から出ようとした。扉越しに「男性は皆出るのですか?」と振り向けざまに言い外で待機していた。ところが男性は一人が続いただけでそのスイス人の男性はまったく部屋をでるそぶりを見せなかった。そこでわたしは腹が立ったのでまた扉越しに「君は男性なのか女性なのか、それともサルなのか」と憤懣やるかたない言葉を吐いた。

 「あのアベックは日本人を名指しで出てくれって。そういう連中なんだ」。共に部屋を出たフランス人はそう言った。そして、僕ら三人は10分も経たないうちに、笑うことも覚めてバケツをみつめていた若い女性の登山者たちのいる部屋に戻った。

 

2013年4月22日月曜日

サガルマータトレック  シャクナゲ道にて



34Karikhold

LUKLA2850㍍)

35Ghat

36NAMCHE BAZAR3440㍍)

 
34
 Junbesiロッジの朝食は久しぶりの焼き飯とたまご。745分、ゴンパの門を抜け、川を渡り山腹沿いに登りはじめる。今日はあいにくの曇り空。峠にくるとゴンパ(仏塔)がすくっと堂々の姿で立つ。その間にはたはたとはためくタルチョ。疫病退治の赤、白、緑、黄等彩色あせた旗が風にのってやってくる疫を退治してくれる?迷信,呪い、魔除け・・の威風な姿。

 ここらへんから、北のエベレスト方面の源流がひらける。これまでとは違う本格的な登山の苦労がやってくる。きつい下りでひざが痛い。Tragshindhoにラマ教の寺院あり。Manidingmaで昼食。テントをはる西欧人2人。昨日会ったシェルパと西欧人が上流に向けぐんぐん登る姿がみえる。

 Junbingは北の上流に向かう起点。崩れ岩が堆積するなかに家とやせた畑があり、自然と対峙する山の民の恐るべき生活。V字谷の渓谷がはっきり見える。昇りつめた尾根から見る段々畑の面と面の連続。黒沢君曰く黒部だなァ!僕は四国の焼畑の村と形容。Karikhold 545分。

 35
 Karikhold 8時発。川を渡って峠まで直登。早くも猛然と汗をかく。今日の寒さと曇天は最悪だ。たまった疲れと単調な景色で歩くのがいやになる。Puiyanで昼食。ピンクのシャクナゲと沈丁花のにおいにすくわれる。Surkyoで一瞬の晴れ間から雪山がみえる。帰りの空の便が発進するLuklaを経ずして崖路にゴンパのある村を通過しながらGhat6時着。

36
 昨夜見えた星空が今日の晴れに通じた。上流の山の先にナムチェがあるはず。川伝いに昇る。白い岩を眺めながら橋を渡って1時間弱でNamcheBazar。ナムチェはにぎやかな集落だ。子ども達がブリキのバケツを叩いて踊っている。12時着。風が強くなってきた。

 

 

2013年4月7日日曜日

サガルマータトレック   高度順応の道





228日カトマンズ(1300㍍)

229Nigalam

Yarsa

31Chisapani

JIRI(1905)

32Chyangma(Bhandar

33Junbesi2675㍍)

229
 28日出発の予定が一日遅れのサガルマータ(世界の頂上)トレック。これから数日間は芋、野菜、ライス、茶に限られた食事になる。7時半のバスに危なく飛び乗ってLamsong12時着。ここから買いたてのショートパンツに履き替える。峠まで2000㍍程の登りは多くのシェルパ族の男性が行きかう交易の山道でもある。地図の縮尺が間違っているのかアルバイトがきつい。Nigaramの峠の集落に日没寸前に着く。かなり寒い。トレッカーは僕ら2人とオフシーズンのためか小屋は現地のシェルパを含めて8人ほど。

 3月1日
 朝7時半、霜が一面はりつめた山を下る。歩きながらHelambでみた椿はきれいだったなァ、と黒沢君に話したら「交易のこの道に散ったようにばらまいてるシャクナゲは宗教と関係あるんだってさ」と言った。椿は間違えだった。シャクナゲは山頂から中腹まで茂って、それも鮮やかな紅色のシャクナゲだからすごいな、と思った。

  ネパールの山は耕さられた段々畑が遠くて見えないふもとから山の上まで続く。その大きさがすごい。第一の大河近くKirantichapで昼食。トロトロと煮たったチャイ。なにが用意されているわけでもないから12時着で1時半に出発。のんびりしてしまう。出会った小学生の足の速いこと。素足で橋を目指して飛んでいく。
 
 Yarsaまで今日は行きたいので7時まで歩こうと黒沢君。彼は谷川岳のクライマーでは止まらない山家だ。速足についていくのはきついが段々畑の景色に感謝して頑張る。それが峠のChisapaniまで行くことになる。かなりお互い疲れるが夕やみ迫る7時過ぎに着く。ここまでは他のパーティーなら5日かかるところ僕らは1日半で来た。この先を考え少しは自重しなければとお互い納得する。

 32
 風邪ひきからあまり眠れなかったが久しぶりの朝糞をたれて8時半の出発。第二の大河に向かう。段々畑に行きかう土地の素足り男。シャクナゲにヤギ、バクのフンを見ながらひたすら歩く。「ナマステ」のあいさつが気持ちいい。

  第二の大河は鉄の架橋。ここから峠までは昨日ほど距離はない。下りは膝が痛い。ショートパンツは粗悪品で色が抜け下のパンツが真っ青に染まってしまった。3000㍍の峠からBhandarChyangma)までわずかの歩きで545分着。昼の昼食をとったThoseでは痩せこけた犬が昼寝をしていて、毛をむしられた鶏がようやく生きているような。小さな子供が道に倒れていて泣き騒いでいても誰もかまわない。交易の道にはなんでもありだ。石を敷きしめたThouse集落。

 33
 この強行軍では睡眠が大切だ。ヒマラヤではメシの次に気をつけなければいけない。きついのは子どもの夜泣きや夜通し泣きわめいている中を寝ること。大人が早朝から歌を歌っているのにはまいった。おまけに体調が悪いとこうした雑音がこたえる。今日の宿泊地Junbesiはどうなりますやら。

 8時半出発。第三の大河に向かって下る。橋を渡って登るとPhedi近く。白砂が川床を広く覆い、上流でも河川が大きいのに感心する。Phediに着いてようやく雪山が北東方面に見える。また峠をめざし、川をはさんで南に4000㍍の山が見える。これからが長いアルバイトだ。ラマ教のゴンパ(仏塔)が尾根道の集落に立ち並ぶ。峠近くに残雪。樹木にこけむした皮ふがはりついたようなサルオガセやのっぽのシャクナゲが尾根道に茂る。東の方もモミの木とシャクナゲの林で夕日に照り輝く中を下る。北八ヶ岳でみたような記憶がよみがえる。

 下に見える白い家々はアルプスの村落かと錯覚してしまう。Junbesiの集落が下に見える。まさかパキスタンの山は見えないだろうけど、ヒマラヤのナンガ・パルバットなら、と思う高山が黒雲の間にキラキラと夕日に染まり輝いている。ヨーロッパアルプスの村落はこんな感じなのかなァ。715分すぎJunbesi着。

 

2013年3月27日水曜日

イギリス婦人のヒマラヤ




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(記憶遥か)

Taramarangに到着した時、初老のヨーロッパ系の婦人とまだ10代の若いシェルパが休息していた。婦人ははきはきとした英語をしゃべり、シェルパは寡黙に応えていた。

ヘランブトレックの最終の帰路は午後の陽をあびた土手道の時間。空を仰ぎながら歩くトレッカーの一挙手一投足に魅かれ、ポーターのシェルパの若者と同じように、わたしは歩くペースを等間隔に合わせてしまった。

 イギリス婦人はウエストを絞ったブルーの柄物ワンピースを着て、カメラひとつをぶら下げていた。杖を突き、ズックを大地に乗せるようにとぼとぼと歩き、一定のリズムで後ろを振り返る。そして前を見上げ、自然を楽しむように歩いていた。

 イギリス婦人は何か思いを探すように、若い日の思い出のヘランブトレックをみつけようとしているようだった。旦那さんとの若き二人の青春を確かめるように、自分の時間を楽しんでいるようでもある。

 わたしががそばにいって声をかけるときれいなブリティッシュでこたえるかもしれない。いや、土手道の草花に目を移し、通り過ぎる人など気にもかけないだろう。ただ、彼女は輝く雪山のヘランブを忘れないように立ち止まりそしてまた、振り返る。