2011年3月25日金曜日

パンと牛乳と白チーズ















































11月21日 イスタンブール ツーリストホテル8.5トルコリラ7㌦両替 253㌦


11月22日 ステューデントホステル7トルコリラ


11月24日 5㌦収入 258㌦


11月27日 アンカラ Yailホテル15トルコリラ


(記憶遥か)

 寒い朝だったが暖房が利いて心地よい寝起きだった。外は薄暗く雪降る中をあえて松岡君とあったかい食材を求め宿を出た。寒さで身をすくめ、二人でウロウロするのが寝ざめにはちょうどいい。なにを、というものでもない。このイスタンブール旧市街・スルタンアフメットの裏町の石畳の路地を歩く。雪にまみれ、足元のつっかけサンダルの音を聞く時間があり、路地をまがって早々とパンが焼けるにおいを嗅いだ。


 石窯がみえる小さな町のパン屋さんは朝の食材がそろっていた。フランスパンが木の平棒にのっかって次々と石窯からとびはねてきた。温かいフランスパン。それにガラスケースの白チーズと牛乳。松岡君と食材をかかえこの町一番の安宿にもどる。フランスパンを切って白チーズをはさみ一口食べて牛乳を飲む。その温かいカリッ、フワッとした噛みごこちとのど越しのヒンヤリ感が・・うまい。 


11月27日

 どうにか松岡君とアンカラに到着した。オランダ人のヴェラン君とギリシャ国境で走りこんできた南アフリカのジェニー君はイスタンブールからヒッチハイクで出発して大変だ。僕と松岡君は雪の影響を考えて長距離バスに乗ったのがさいわいした。それでもアンカラ50㌔手前の峠越えで自動車事故の渋滞にあって大変だった。


 そろそろトルコから東京までお金の算段と日数を考えなければと思う。いずれにしてもアテネで安い航空チケットをステューデントカードで買えたのでにホッとした。インド・カルカッタ~タイ・バンコク~台湾・台北~東京経由で手に入れた。なのに好奇心が優先してしまいうろうろしている。


 アルジェリア行きをめざしていたころ安宿で見知った日本人の旅行者とイスタンブールのホテルで再会した。彼の情報からトルコの暗部にあたるクルド人を知るのが面白いという話題にひかれた。そこでアルタリア高原のディアルバキルに行くことにした。松岡君はイスラエルに行くのでカイセリまで一緒に旅をすることになった。


 再会したクルド問題にくわしい彼は運が良かったと言っていた。僕がシリアに向かった後、日本人のバックパッカー達は大挙、陸路イラン、アフガニスタンに向かった。アフガニスタンのカブールでは生野菜を食べたのがいけなかったのか、ほとんどが肝炎にかかってしまい、多くは日本に強制帰還の体だったという。


 僕のうろつきはまだある。ネパールでトレッキングする計画だ。アテネであの登山家の話を一緒に聞いていた西ドイツの留学帰りの黒沢君と話があってしまい、2月9日にカトマンズのホテルで合流しようという話が決まっていた。


 明日は朝早く起きて、天気が心配だがカイセリへヒッチハイクで行きたい。12月にはイラン。アフガニスタンのカブールでは落とした残りのチェックのドル収得がある。うまくいってもらわないとまづいことになる。

 今日のアンカラ民族博物館はよかった。館内に入ると照明に映えた御影石がきらびやかで、ガラスケースのなかの文物、鉄のヒッタイト文化の神々しさやセルジュクトルコと現代トルコの民衆が着る織物の柄行の豊かさに感激した。この博物館はそのまま日本に来てほしいほどの素晴らしさだった。


 それにしてもこの頃は、一人の女性がばくぜんだが恋しくなる。「今度はあなたと一緒に旅をしたい」とか、こう、づうづうしく思うのも旅の必然かなぁと思う。それと宗教に関する関心がますます強くなってきた。どういうことだろう。これからアジアに向かうにあたり考えてしまう。


      *大きな国の小さな町*


寒い11月 外を見上げれば冬の星空 


わたしはここにいる 大きな国の小さな町


大きく開かれた窓から町の灯がみえる


遠い山のすみずみまで築かれた家に赤い灯がともる


大きなビルディングに赤い灯がともる


雪はまた消えれば消えるほど


町の活気と冬の寒さを衿元にきずかせる

石炭のばい煙はわるくない 大きな国の小さな町
















2011年3月5日土曜日

ヒッチハイクロードの出会い



11月19日 テッサロニキ

11月20日 クサンティ
(記憶遥か)
アテネからトルコ国境の旅は高速道路のヒッチハイクがいいと口コミで伝わっていた。そこで路線バスで高速入口まで行き、運よく声をかけてくれたオランダの青年と乗用車に乗り込んだ。今日はテッサロニキ(サロニカ)あたりまで行きたいと勝手に決めていた。オランダの青年は乗せてくれたギリシャの中年の運転手さんと盛んにドイツ語で話している。合間に「運転手さんはテッサロニキに行くつもりだったらしいが、体調が悪くて難しそうだ」と言った。そして「あなたはどうする?」と聞いてくるので「テッサロニキには行きたいけど、しかたないね」と答えたらしばらくして又、同じ質問をしてきた。

私は今日は無理かと思っていたら、運転手さんが途中で食事をしたいらしくパーキングエリアに入り食事をおごってくれた。私と彼はていねいにお礼をいったら、その運転手さんはどうやら僕たちの様子を確かめたかったようだった。オランダの青年は、その運転手さんが長く西ドイツに出稼ぎに行っていて久しぶりに母国のギリシャに帰ってきたことを小声で教えてくれた。運転手さんのおかげで目的地のテッサロニキに晩くに着くことができた。

テッサロニキに着き、街中で車を降り運転手さんにお礼を言って、私はオランダの青年とも別れた。小雨の中を歩いていたが街灯が薄暗くホテルの所在が皆目わからない。仕方がないので門構えがしっかりした建物が見えたので構内に入った。屋根のある渡り廊下をみつけたので、ちょうどいいと思いコンクリートの上に傘を開いて寝ることにした。

翌朝、誰かが寝ている私の肩をゆすった。警備員だろうか。朝日がさんさんと注ぎ、今日は天気がよさそうだ。構内をでるとき振り返ったら、昨日はどうやら図書館をねぐらにしたようだった。東に延びる道路をひたすら歩いていると大型トラックが止まってくれた。ギリシャの運転手さんはいい人だった。乗って5分もしないうちに昨日のオランダの青年が道端で手をあげていた。彼をみつけた私が大声で手を振り運転手さんにおしえたら彼も乗せてくれた。

クサンティを過ぎたあたりでトラックと別れまた歩き出した。オランダの青年はのどが渇いたらしく、近くにお店を見つけ「お湯をもらってくるよ」といって水筒を片手に路地のお店に入っていった。しばらくして彼が追いついて水筒を私にさしだした。私は彼の好意をありがたくいただいた。歩きだしたら彼が「あっ、お湯でなくて・・・」といったので私は「おいしかったよ」といった。そこらへんが習慣の違いなのだろうか、私にはありがたい水だった。

ポカポカ陽気になってきた。僕たちは道路沿いの公園で一休みすることにした。彼はオランダで体育の先生をしていた22歳のヴェラン君と自己紹介した。彼は退職して旅に出てギリシャのキプロスの果樹園でオリーブもぎの一仕事をしていて、そのがっちりした体躯をつつむ黒いスーツはよくみると船乗りの服のようで「別れるとき親方からもらったんだ」といった。ショルダーバック一つだし、軽装な旅なのに私は感心した。私は彼に「あなたはドイツ語やギリシャ語も話すんだね」と質問すると「オランダは小さい国で就職先が少ないので、外国語をしゃべるようにしないとね」と若者の就職事情を教えてくれた。

公園には何でも興味ありの子供がいた。地元の小学生らしい子が盛んに「日本人・カラテ」「日本人・カラテ」とはやしたてながら寄ってきた。私はカラテを否定してその子に「日本人・スモウ」「日本人・スモウ」とからかうように返事をするとわからない、というように首をかしげたので私は足で土俵を描いた。土俵に勇躍あがった私はしこを踏み、塩をまき一人相撲をやりだした。するとその子と一緒にヴェラン君もニコニコしだした。私はその子に土俵に上がるように手招きし一勝負した。その子は体を組むというのがわからないらしく、土俵をでてはいけないというのもわからない。私は、困った困ったと首をかしげているうちにヴェラン君も加わり二人が同時に私を土俵から押し出して、笑いのうちにその小劇は終わった。

国境近くに来た。建物の中にヴェラン君と入ったら日本人のバックパッカーが一人座っていた。彼は自己紹介を英語で、自分のニックネームもいうので私はすごいベテランの旅行者だなぁと思った。それに私なら日本語では「君は」というところを彼は「あなたは」といいだすので紳士的なのに面食らった。彼がながの旅の空で相棒となる松岡君との出会いだった。